俺は必ずお前に出会うだろう――それがどんなに遠い未来でも。
夢を見た。
白音が瞬きすると、涙が頬を伝ってシーツを濡らした。
「なんだ、これ」
急に意識が覚醒していく。
白音は自分が泣いていることに気がつき、驚いて目元を手で拭った。
目が覚めたばかりの白音には、自分が泣いている理由がわからなかった。
夢を見ていた気がする。だけどどんな夢なのか思い出せない。
最近そんなことが多いが、目が覚めたら泣いていたというのは初めてだ。
「ったく、黒音にバレたらなんて言われるかな」
白音の双子の兄である黒音は、弟を猫っかわいがりしているくせに、イジメるのも大好きという難儀な性格をしている。夢を見て泣いたなんて話は、格好のからかいの理由になる。
そんな兄への好意を素直に表せるほど、白音は子供ではなかったし、大人でもなかった。
十五歳という年齢は、微妙な年頃だ。
双子だというのに、実際見た目はそっくりなのに、黒音は兄で、白音は弟として形作られている。
それに無性に反抗したくなる時もあるが、今の関係が心地よくもあるので、白音の黒音への感情は複雑なものだった。
そして自分たちの関係は、現実世界における双子の兄弟というだけでは無いことが余計に複雑なのかもしれない。
そんなことを考えながら、白音は繰り返す夢のことが気になった。
内容は思い出せない。
だが、同じ夢だということは憶えている。
ふと、誰かに名前を呼ばれた気がした。
夢のなかと同じように。
慕うように、憎むように、激しく切なく白音を呼ぶ声。
いや、白音をではない。
『マダラ』を呼ぶ声を――確かに聞いた気がした。
「あー! また絶対障壁にぶつかったぁぁぁ!!!」
電脳世界へのフルダイブを可能にしたヘッドギアを被ったまま、麒麟は叫んだ。
もっとも、フルダイブ中は、現実世界の肉体への感覚フィードバックは切られているので、叫んだのは彼女のネットにおけるアバターの『キリン』である。
キリンは少女型アバターだったが、その容姿は現実世界の麒麟と酷似している。
アバターにしても鑑賞に耐えるほど、麒麟という少女は、際立って美しかった。
可憐な少女の姿をしながら、母性を感じさせる包容力に満ちた雰囲気と、いきなり頭を抱えて苦悩に満ちた表情で叫び声をあげた奇橋な行動がチグハグでアンバランスだったが、彼女を知るものには、そんなところもまた魅力に映っているのだろう。
麒麟は半年前に20歳になった。
極東エリアと呼ばれる島国で、ちょうど成人を迎えたということになる。
成人したというお祝いに、両親からフルダイブをようやく許された麒麟は、あるゲームに自分の時間のほとんどを費やしているが、それは順調なものではなかった。
「これやっぱりバグなのかなぁ? でも解ける人には必ず解けるって掲示板にもあるし、会社に問い合わせしても不都合は見つかってないって言うし。私のやり方が悪いってことか」
ゲームの名は『アガルタ』――――電脳世界に構築された巨大な天空都市を攻略するフルダイブRPGである。
アガルタは自由度の高いゲームで、都市の居住エリアで働いたり遊んだりするだけでも楽しめるし、危険エリアでモンスター退治をしてレベルを上げることに熱中する者も入る。ゲームのやり方によって身分が設定され、最終的なランクとしてアル・アジフ(世界の王)が存在する。
ゲームが発表されたのは二年前だが、アル・アジフの座に辿り着いたものは、未だ存在しない。
アル・アジフを目指すものは多い。しかし、プレイ上の何が要因でそのランクに到達できるのか、知っているものは誰もいないのだ。
麒麟がアガルタを知ったのは、ゲームが配布されて半年たった頃だった。
その時のことを、今でも鮮明に思い出せる。
麒麟は十五歳でカレッジまでの教育課程を終了し、それからは今までしなかった様々な遊びに熱中した。
幼い頃から、憑かれたように勉学にのめり込む娘を心配していた両親は、遊びに興味を示しだした麒麟をむしろ喜んでいたので、道具や機械を気前よく用意してくれた。
ただ、電脳世界へのフルダイブだけは、成長期には悪影響があるということで許されなかった。それでも多岐にわたる新たな遊びに夢中だったから、それも気にならなかった。
成人するのが待ち遠しくてたまらなくなったのは、一年前の春からだ。
たまたま入った映画館で、アガルタの宣伝CMを観た時、麒麟は締め付けられるような郷愁を覚えて涙が零れた。
画面に舞い散る桜吹雪。異国情緒に溢れた巨大なダンジョン。そこに確かに麒麟は『彼』の姿を見た気がした。
『彼』――――摩陀羅の姿を。
摩陀羅とは、真王の名である。
それはいつの頃からか広まった巨大宗教組織――金剛宗の初代教祖が信仰していた神の名でもあった。
その教義は、『彼』に帰依することで永遠の幸福を得ること。
金剛宗では、人間は無限に転生するシステムだと教えている。
その転生システムは、複数の霊が同一化することもあれば、ひとつの霊が分霊するこもあるというものであり、しばしばグループとして同じ時代に転生を遂げるというものだ。
麒麟は金剛宗の巫女の娘だった。
母親の顔は憶えてないが、今の両親は母の遠縁にあたるらしい。
両親は金剛宗の信者ではなかったが、麒麟はいつか摩陀羅の妻になるのだと教えられて育った。
勉強にのめり込んだのは、そんな両親への反発だったのかもしれない。
幼い頃は、会ったことも見たこともない摩陀羅という偶像の奥さんになるのだと無邪気に信じていたが、早熟だった麒麟は、すぐにそれがあり得ない妄想だと気がついた。
世界を知れば知るほど、知識が増えれば増えるほど、摩陀羅の存在は疑わしいものになっていく。
だが、生まれた時から植え付けられた摩陀羅への思慕は、ほとんど本能にも等しく麒麟を強く支配した。
理屈ではなく摩陀羅を愛している。
しかしそれは存在しない空想の神なのだ。
どこにもいない『彼』の夢を何度も見た。
それは、屈託のない表情で笑う少年の姿だった。
その少年の姿を、アガルタの中に見た気がした麒麟は、両親にゲームをさせてくれるように頼んだが、フルダイブということがネックになって、半年待たされることになった。
あり得ない存在を手に入れられるかもしれない夢に、麒麟は溺れた。
狂おしいまでに待ち遠しい半年が経って、ようやくアガルタに接続した時は、情報量のあまりの多さに気を失いそうになったが、何故かここに摩陀羅がいることを確信できた。
「またやってるの、キリンちゃん?」
「ヒミカこそ、こんなとこまできたのは同じ理由でしょ?」
アガルタの上層階にある絶対障壁の前で、キリンは自分と同じくらいの年頃の少女型アバターであるヒミカの方を振り返った。
「まあそうだけど、そっちほど切羽詰まってるわけでもないもん。アル・アジフの妻になれたらラッキーだなってだけだし」
「『彼』がどんな人なのかも、というか、まだ誰もその座についてないのに、虚しいとは思わないわけ?」
「うわー自分のことは棚上げだねぇ。好きな人を世界の王にすればすむことじゃない? 私はむしろそっちのほうが楽しそうかなと」
キリンは憮然として、絶対障壁の見えない壁を軽く蹴った。
「この壁、どうやったら越えられのかな」
「むー半年でここまでこれただけでも凄いと思うけど。私なんて初期プレイヤーだけど、ここきたの最近だよ」
「せっかく妣の巫女なんていうレアランクなんだから、もう少し優遇されてもいいと思うけど」
アバターの艶のある黒髪を指でくるくると巻きながらキリンがそう言うと、ヒミカは呆れた様子で溜息をついた。
最近のゲームはどれもそうだが、こんな動作までよくできていることに感心する。
「アル・アジフの妻になる資格があるってだけで優遇されてるでしょ! それに私たち妣の巫女をパーティに入れておくとHP無くなっても自動復活できるし、すべてのステータスUP効果があるのも私たちだけなんだよ? これって凄いよね?」
アル・アジフの配偶者候補である妣の巫女というランクは、女性プレイヤーにとって最高位に位置する。世界の王の座に女性がつけないのは差別だという意見 もあったが、アバターの性別は自分で選べるし、アガルタは何も王の座につくことがゴールというわけでもない。実際それらをわかった上で、男でも女でもない 白という性別を選ぶ者も少なくないが、世界の王とその王妃というランクは確かに特別なものなのだ。
「またマダラのことを考えてたの?」
「そんわけじゃないけど……」
嘘だった。
アル・アジフの存在を知った時から、それは摩陀羅に違いないと思った。
そして、アガルタには『マダラ』と呼ばれる少年がたち存在することも知った。
だけど麒麟がゲームを始めて半年もたったのに、未だにその存在には出会えていない。
マダラという少年は二人いるということも噂で聞いた。
白を意味するマダラと、黒を意味する影王マダラ。
二人のマダラは対となる存在で、アル・アジフとは二人が合一した姿だという話も広まっていたが、その真実を確かめたものはいなかった。
公式は、その噂を肯定も否定もしないという立場をとっている。
どちらのマダラが自分が愛する相手なのか、それとも二人が合一した真王マダラこそが求める存在なのか、そんなことをいつも考えてしまうが、一度も会ったことのない相手のことをここまで考える自分が異常なのだという結論しか得られず気が滅入るばかりだ。
「この層の辺りでマダラを見たって報告はあるんだよね。掲示板は荒れ気味だけど」
見えない壁をぺたぺたと触りながら、ヒミカは呟いた。
「白い衣装がマダラで、黒い衣装が影王だって。うっかり高レベル戦闘エリアに入り込んじゃった新規プレイヤーがマダラに助けてもらったていう話もあるけど、それも噂だもんね」
「二人とも天使かもしれないわよ」
「電脳天使? それこそあり得ないよ。天使は主の命令以外受け付けないもの。どんなに自然に見えたって、そうプログラムされた以上の行動はできないし」
「じゃあ、どちらかがプレイヤーなのかも」
電脳天使とは、電脳世界と人間の橋渡しをする情報生命体のことだ。
もともとは、キャラクターを模したインターフェイスのことだったが、進化したプログラムはそれだけでは説明できない何かになった。
混迷の時代に何があったのかは、若い世代である自分は知らないが、麒麟が幼い頃には、電脳天使はかなり身近な存在だった。
「そういえば、キリンちゃんは、まだ自分の天使を持ってないんだよね?」
「卵はあるけど、まだ孵化させてないわ」
情報生命体の名の通り、天使たちは繁殖することができる。
自由意志に近いものを持っている天使は、自分と波長が合う相手に会うと、互いの子供にあたる卵を生む。
これは主である人間の自由になることではなく、生まれてきた卵が誰を主に選ぶかも予め決めることはできない。
孵化する前の卵は情報の海を漂って、新たな主のもとに届く。
孵化させるには、主の声が必要となり、その声をキーワードに、卵に手を加えることができた。
卵には最初からそれぞれ個性があって、それは変えることはできないが、外見設定や能力などは修正が効く。
麒麟は十歳の時に、自分の卵を手に入れた。
どこからきたかも分からない天使の卵を麒麟は大切にしていたが、いつ孵化させればいいか迷ったまま十年が過ぎてしまった。
「じゃあチャンスだよね。ここで自分を守ってくれるナイトを作っちゃえばいいじゃない」
ヒミカはそう言うと、目を輝かせてキリンの手を握った。
「そうだ! せっかくだから、私たちで対の戦士を作ろうよ! 私も最近卵を手に入れたばっかりだからさ!」
「え、えー?」
「どっちが王妃になっても恨みっこなしってことで、私が赤の戦士ね!」
「つまり私の天使は青の戦士ってこと?」
対というとどうしてもそういう固定観念がある。
白には黒、赤には青という具合だ。
「ん、でも悪くないかな」
大事にしていた卵だが、こんな切っ掛けがなければ、永遠に孵化させてやれないかもしれない。
これがいい機会だろうと思えた。
「じゃ、いっしょに声をかけてあげようね。あとでDMするから時間決めよう」
「うん。待ってる」
そう言うと、麒麟はアガルタから落ちて、ヘッドギアを脱いだ。
端末の中に輝く金色の卵に触れて笑いかけると、麒麟は少し幸せな気分になった。
「私だけの戦士……か。つまり摩陀羅に仕える戦士ってことで名前考えなきゃ」
ごく自然にそう考えると、青の戦士の名前と外見を決める作業に入る。
それが全ての運命を決することを、麒麟はまだ知らなかった。
卵の中で、彼は声を待っていた。
自分を覚醒させる特別な存在の声。
電脳天使は両親を知らない。
もし偶然にも出会ったとしても、それは他人よりも遠い存在だった。
だからこそ己の主は、天使にとって大切なのだ。
父のように、母のように、娘のように、息子のように、そして兄弟姉妹のように。
彼は主を求めている。
凍結された卵に時間は意味が無い。
ただ待っているという状況があるだけで、そこに変化はない。
唐突に、声が聞こえた。
『夏鳳須』
それが自分の名だとはっきりわかった。
主が自分を呼んでいる。
卵の中で、夏鳳須と呼ばれた彼は、急に自分というものがすごい勢いで確立していくことに気がついた。
高い背丈、しなやかさを感じさせる長い手足。
オールバックの髪は、少し固めの銀髪で、つり上がった瞳は、空を思わせる青だった。
夏鳳須は、自分が攻撃に特化した性質を持っていて、主と主が守りたいと思う相手を守護するというどちらかというと苦手な分野を追加プログラムされたことを不満に思ったが、主の願いは絶対だ。
目覚めよと声がする。
卵の殻は破れた。
「よお、相棒」
「誰だお前は」
赤い髪に金の瞳をした青年型の電脳天使を前に、新たに生まれたばかりの夏鳳須は呆然として言った。
伝説はまだはじまらない。
神と魔と人と天使の終わりのストーリーの幕が開くまでには、しばしの時間が必要だった。
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