それは、なんでもない日常から始まった。
災厄はどこから現れるかわからない。
いつもの日常にも、落とし穴はいくらでも潜んでいるのだ。
衛宮士郎と英霊エミヤは、赤い悪魔の襲撃から今日も逃れることはできなかった。
一言で言えば、それだけの話である。
だが、ふたりというか、主にアーチャーに与えたダメージは計り知れない。
話を最初に戻そう。
アーチャーのエプロンが破けたことから、すべては始まった。
「どうしてくれる」
「あやまるけど、これって俺だけが悪いのか?」
「破いたのは、貴様だろう」
ふたつに裂けた藍色のシンプルなエプロンを前に正座する士郎と、仁王立ちでそれを見下ろすアーチャーを、いつものごとく遊びに来ている女性陣プラス青い犬が、こそこそと、嫌、むしろ堂々と覗いて話し合った。
「赤じゃないんだ」
自分は今日も赤い服を着た凛が呟くと、微妙な表情で桜が言った。
「突っ込むところはそこなんですか、姉さん」
「藍色も似合ってたけど、シロウは白が似合うと思うわ」
「おう、俺も賛成。あいつ色が黒くて、白髪だから、白が映えると思うんだよな」
何故か、士郎をお兄ちゃん、アーチャーをシロウと呼ぶイリヤスフィールがウットリと言うのに、便乗してランサーも勝手な批評を繰り広げた。
周りの喧騒にもかかわらず、士郎とアーチャーは膠着状態に陥っている。
「白、白ね。それもありか……ところで、あれはどういう状態なの?」
「剣の練習中に、先輩が、アーチャーさんのエプロン破っちゃったみたいですよ」
「なに? エプロンしながら戦ってたわけ? なによそれ。どっちかというとアーチャーが悪いんじゃないの。なんで、士郎が正座させられてるのよ」
そうなのだ。
投影と剣の修行を兼ねた練習の間、昼食が近かったこともあり、アーチャーはうっかりエプロンをしたまま士郎の相手をして、またうっかりと士郎の剣を正面から受けてしまい、エプロンが切り裂かれてしまったのだった。
凛の言うとおり、この場合、そんな格好で戦ったアーチャーに責任がある。
だが、アーチャーは断固として、エプロンを裂いた士郎が悪いと言い張っている。
アーチャーらしくない意地の張り方だった。
「あー、八つ当たりじゃねーの? 多分坊主が思った以上にいい線いったんだろう。油断でエプロン裂かれたんなら、自己嫌悪になっても、怒らねーよな」
「あら、むしろ嬉しかったんだと思うけど。でもシロウってツンデレだから、多分、あれは照れ隠しね」
「なんで負けそうになって、嬉しいんだ?」
「犬にはわからない複雑な感情表現なの!」
「誰が犬だ! 誰が!」
イリヤスフィールの言っていることは、凛にもわかった。
そこにいるのは、過去の自分自身だが、己とは確実に道を違えた別の人間になるはずの少年だ。
一度は認めたはずの士郎の存在を、今は日常を共に過ごすものとして、つい未熟者扱いするのが普通になってしまっているのに、己と対等の存在として認められるほど、あの弓兵は単純にできていない。
何もかもを自分のせいだと背負い込む気質の彼にとって、士郎だけがある意味甘えられる対象なのだろう。
だからこその八つ当たりだ。
ランサーも別に間違っているわけではない。
士郎が己を超えることは、アーチャーにとって嬉しいことであると同時に、腹立たしいことでもあるのだから。
「でも、莫迦だわ」
甘えている自分を分からずに苛立っているのは不毛だ。
同一人物だとか、年の差だとか、経験の差だとか、そんなことはどうでもいいから、素直になればいいのに。
凛は立ち上がって、アーチャーに声をかけた。
「ちょっと、いつまでも突っ立ってたって破けたものはしょうがないじゃない。うちにちょうどいいのがあるから待ってなさい。今取ってくるから」
「凛? きみには関係なかろう。エプロンならこの未熟者に弁償させるから、なにもきみが用意することはないぞ」
小さい声で、士郎が、元々は俺のなのにと呟いて、アーチャーに頭を踏まれた。
「なによ。私の好意が受け取れないって言うの? いい度胸してるじゃない」
凛がにっこりと笑うと、アーチャーは少し怯んだように言った。
「そんなつもりはないが、何故男物のエプロンがきみの家にあるんだ? それは本当にもらってもいいものなのか気になるんだが」
誰かの形見だったりしないだろうかと、遠まわしに訊ねてみると、あっさり衝撃の事実が返ってきた。
さすがのアーチャーも、この答えは予想外だった。
「昔綺礼が使ってたのがあるから、気にすることないわよ。捨てるのももったいないし、あんたにはちょうどいいと思うわ。ついでに士郎の分もあるけど」
「「言峰の?!」」
外野が呆然としているなか、渦中の二人が声を上げた。
言峰のエプロン姿など、まったく想像がつかない。
だいたい、何故言峰のエプロンが凛の家にあるのだ。
それになるべくなら、言峰のお下がりなど遠慮したいところだ。
「綺礼は父さんの弟子だったって前にも言ったでしょう。その時、うちの手伝いもしてたのよ。四川料理とか作ってくれたわ。その時用意したエプロンが、まだうちにあるの。別に呪われないからもらってちょうだい」
家に置いておくのも嫌だけど、捨てるのも気持ちが悪いんだなと全員が思った。
思い出すのもいまいましいが、ここにいる全員が言峰には含むところがある。
しかも相手は既に死んでいる。
なんだかそんな相手のエプロンをもらうのは気色が悪いが、乗り気の凛には言い出せなかった。
「じゃ、そういうことだから、喧嘩しないで、大人しく待ってなさいよ」
「凛!」
「遠坂!」
士郎とアーチャーの制止も気にせず、凛は衛宮邸を後にした。
「持ってきたわよ」
凛が紙袋を持って居間に入ると、何故かランサーが倒れていた。
「どうしたの、これ?」
「シロウにちょっかいだして返り討ちにあったのよ。躾がなってないんじゃないの、凛?」
イリヤスフィールに言われて、凛は肩をすくめた。
凛としては、最低限の躾はできていると思っている。
自分に被害さえ及ばなければ、ランサーの行動を制限するつもりはない。
だいたい、ふたりのあれはコミュニケーションのひとつだろう。
そんなことを考えながら、憮然とした表情で並んで座っている士郎とアーチャーの目の前に、凛は持参したエプロンを広げて見せた。
途端に、沈黙が重くのしかかる。
勇気を振り絞ったような声で、士郎が凛に訊ねた。
「遠坂、これはなんなんだ?」
「何って、見れば分かるでしょう。エプロンよ」
さらに沈黙は深くなった。
そこにあったのは、真っ白で大きなエプロン(フリル付き)だった。
これを言峰が着けていたのかと思うと、怖くなった全員だったが、アーチャーに着せてみたらと思うと、いきなり女性陣のテンションが上がった。
「シロウ! 早く着てみて! お姉ちゃんにその姿をよく見せなさい!」
「私も、アーチャーさんのエプロン姿見てみたいです」
桜までが頬を染めている姿を見て、アーチャーはがっくりと項垂れた。
「桜、きみもか……」
そして、同じく顔を赤くした士郎を見て、うんざりとした表情を浮かべた。
「貴様は何を想像したんだ。答えによっては切り刻む」
「お、俺は別に何も考えてないぞ。ほ、本当だからな!」
あからさまに挙動不審な士郎に、アーチャーはそれ以上追求するのをやめた。
追い詰めたら怖い答えが返ってきそうだったからだ。
「せっかく持ってきたんだから、さっさと着けてみなさいよ。案外似合いそうよ」
完全に面白がっている凛に、アーチャーも一応は抵抗を試みた。
「わざわざ持って来てくれたのにすまないが、これはあんまりではないかな」
「私がわざわざタダであげようっていうのに、それが気に入らないって言うの?」
「180センチを超えた大男にフリルのエプロンは、視覚の暴力だとは思わないのかね」
「綺礼も180超えてたけど、ちゃんとそれを着けてたわよ。だから大丈夫よ」
何が大丈夫なのか、小一時間問い詰めたいところだったが、こんな時の凛に何を言っても無駄だという事を、不幸なことにアーチャーはよくわかっていた。
それに結局は、凛に逆らえない自分もわかっている。
前は令呪の縛りがあったが、そんなものがなくても、この少女には逆らえないのだ。
生前の条件反射のようなものだ。
そのうちこいつも私のようになるのだなと、アーチャーは士郎を可哀想なものを見るような目で見つめた。
アーチャーとは違い、半ば凛と恋愛関係にあると言ってもいい分、服従度は自分よりも高いかもしれない。
生前のアーチャーと凛は、あくまでも生涯友人関係だった。
その自分でも、赤い悪魔には逆らえないのに、士郎はどうなってしまうのだろうかと、その行き先が心配になった。
道は明らかに違えているために、その未来は、かつては同一人物だったアーチャーから見ても不明なのだ。
無駄な足掻きで、アーチャーは袋の中にあるもうひとつを指差した。
「そっちは、なんだね。服のように見えるが」
苦し紛れに言ったことだったが、凛はにやっと笑った。
「よくぞ聞いてくれたわ! これは士郎に持って来た母さんの割烹着よ!」
「何故、割烹着なんだ?!」
アーチャーは叫んだが、すでにイリヤスフィールと桜の手で、士郎は割烹着を着せられていた。
それもなんとなく嬉しそうだ。
「へ、変じゃないかな?」
照れながら言う士郎は、女性陣に大好評だった。
「素敵です、先輩!」
「お兄ちゃん似合ってるよ!」
「ふっ。私の目に狂いはなかったわね」
アーチャーは目眩をおこした。
このままでは確実にフリルのエプロンを着ける事になってしまう。
だいたい、何故この未熟者は平気で割烹着を着ているのだ。
「衛宮士郎! 自分の姿を疑問に思わないのか? 何故貴様は微妙に嬉しそうなんだ!」
「だって、遠坂がせっかく持ってきてくれたものだろ。それにこれ結構重宝だぞ。腕も汚れないし、ポケットもあるし」
駄目だこいつは。
道を違えるといっても、こんな風に違えて欲しくなかった。
なんなんだこの男は。
アーチャーは士郎がさっぱり理解できなかった。
「あとは、あんただけね。ちゃんと着けてくれんでしょうね?」
「いや、凛。私はやはり……」
「着けてくれるわよね?」
凛の目力にアーチャーは敗北した。
しぶしぶエプロンを身に着けたアーチャーは憮然として、見物者たちに顔を向けた。
皆が、唖然としたような顔をして固まっている。
だから、視界の暴力だと言ったのにと思った次の瞬間、歓声が上がった。
「似合うじゃないの! 綺礼とは大違いだわ」
「アーチャーさん、可愛いです!」
「シロウったら、リョウサイケンボね!」
「う、うん。悪くないんじゃないか……」
口々に褒めてくる皆を見て、アーチャーは頭痛がしたような気がした。
もちろん気のせいだが。
「正気か? 君たちの目は飾りなのか?」
「似合うって言ってるんだから、素直に喜びなさいよ。素直じゃないわね」
これで喜んだら、何かが終わってしまう気がするが、アーチャーはこれ以上抵抗するのは諦めた。
皆が喜んでいるのだから、自分ひとりが犠牲になることぐらい仕方がないだろう。
「ありがとう、凛」
疲れたように笑うと、何故か全員が赤くなった後、反則と呟いた。
よくわからなかったが、これでいいのだろう。
アーチャーに多大なダメージを与えた騒動だったが、最後は円満に終わったようだ。
アーチャーのエプロン姿を見れなかったランさーが騒いだのは、蛇足である。
どんな日常にも落とし穴は潜んでいる。
アーチャーは、それを今日も思い知ったが、次の襲撃はやはり防げないのだろうなと密かに思った。
それでも、とりあえず、幸福なことなのかもしれない。
それが、有限の時間であることを知っているアーチャーは、ひっそりと微笑んだ。
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