書類の山を異例のスピードで処理すると、ロイは珍しく定時であがった。
眉間にはくっきりと不機嫌を表す皺が刻まれていたが、そ知らぬ顔でタバコをふかしている部下以外に、その理由を知るものはいなかった。
中尉は少しだけ怪訝そうにロイとハボックを見比べたが、書類が片付くのはよいことだと、理由を詮索するのは止めたらしい。
彼女らしいと思い、ロイは自分の機嫌がはたして悪いのかどうかを考えた。
本来なら悪いに決まっているだろうと断言するところだが、ロイには自分がどう感じているのかがまったく分からなくて、それで苛ついていたのだ。
まったく不覚だったと思う。
まさかハボックに告白されてしまうとは。
実は、口説かれるだけならば、上官部下を問わず、ロイは同性愛嗜好の男に言い寄られることは、士官学校時代からよくあった。
全員丁重にお断りしてきたが、その経験上、相手がそうなのかどうかロイには簡単に判別ができたのに、ハボックは違った。
「あいつは、女好きなはずではなかったのか?」
やはり、どう考えてもハボックが同性を好む種類の人間だとは思えない。
では、自分はからかわれたのだろうか。
それも考えにくい。
あの時のハボックは本気だった。
そのぐらいは、ロイにもわかった。
イシュヴァールで、ロイの手をとった同僚と同じ目をしていたから、すぐにわかった。
思い出さないようにしているだけで、いつだって忘れたことなどない戦場で、ロイは一度だけ同性と関係を持った。
あの頃ロイは正気ではなかった。
狂っていたわけではない。
だが正気で戦場に立てるはずもない。
自分は人間兵器だ。
あの時の自分は殺戮のための武器だった。
ロイを人間にとどめてくれたのは、あのぬくもりだけだった。
自分は同性愛者ではないと思っていたが、戦場で差し出された手は、あまりに温かく、優しかった。
その同僚の名も顔も覚えてはいない。
彼は戦場で永遠に失われた。
哀しいとは思わなかった。
ただ麻痺したように、炎を使い続けた。
殺戮するためだけに。
普段は寝るためにしか使わない自宅のベッドに座り込みながら、ロイは手袋をはめたままの手をじっと見つめた。
ハボックが何を考えているかがわからない。
賭けなど口実に過ぎないことは分かっている。
自分が欲しいというのなら、身体ぐらいやってもかまわないとロイは思った。
だが、ハボックがこんな一方的な賭けに出てまで、ロイにして欲しいことはそんなことではないのだろう。
本当は言われるまでもなくハボックが欲しかった。
それがどういう意味でなのかが、どうしてもわからない。
いつのまにか、自分のそばにいるのが当たり前になっていた大型犬のような男の手を、欲しいと思ったのはいつだったのか。
ロイにはもう思い出せない。
ハボックという存在は、ロイにとって空気のようなものだった。
空気の存在を普段意識することなどあり得ない。
それがなくなったとき、人は始めて息苦しさを感じるのだ。
賭けのどちらを選んでも、ハボックはロイから離れない。
ならば賭け自体には意味はない。
あの戦場で差し出された手をとった時と、今の状況はどう違うのだろう。
「どうして欲しいというんだ」
ジャン・ハボックという男を、空気のようだと思うことはもうできなかった。
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