一目ぼれだったなどという安い嘘をつくつもりはない。
ハボックが最初にロイに出会ったときの感想は、なんじゃこりゃだった。
なにしろ、人間兵器、炎の錬金術師の噂は、その女性関係の派手さもあって、軍の男たちには最悪のものしか伝わっていなかったのだ。
上官への数度にわたる消極的命令拒否と、勤務態度のいい加減さからマスタング中佐のもとへ転属されたときは、自分に与えたれた懲罰だと思っていたのだ。
当然いい印象などあるはずもない。
だが、ハボックは先入観でものを見る性格でもなかったので、噂の相手を間近で観察できることを、楽しみにもしていた。
それで、辞令を受けて伺った相手は、書類の前で頭をかきながら唸っていたのだ。
眉間に皺を寄せた顔は、とても年上にも上官にも、もちろん噂どおりの人間兵器にも見えない童顔の青年で、ハボックが机の前に立っていることにも気がつかずに唸り続けていた。
「中佐! マスタング中佐!」
大きな声で呼んでみたが、ピクリとも反応せず、書類と格闘している童顔の上司の横を見ると、マスタング中佐の愛人ではないかという噂のホークアイ中尉が黙ってハボックに銃を向けていた。
「えっと、俺何かしましたか?」
「書類処理の邪魔は重罪よ。憶えておきなさいジャン・ハボック少尉。ここでは、書類の処理の邪魔をするものは、私の的になってもらうのがルールよ。ちなみに、それは中佐も例外ではないわ」
「マジですかい」
では、目の前の上司も、この女性に逆らえずに書類と格闘しているというわけだった。
ハボックは腹の底から笑えてきて、笑いが止まらなくなった。
ホークアイ中尉は軽く目を眇めたが、ハボックをいきなり撃ったりはしなかった。
そのかわり、今まで周囲の声がまったく耳に入っていなかったらしいマスタング中佐が突然立ち上がり、その途端に、書類の山が崩れ落ちたのだ。
「な、な、なんだいったい!」
中佐は崩れた書類と中尉の視線を交互に見ると、がっくりと項垂れた。
その姿は雨に濡れた猫のように見えた。
不謹慎ではあるが、本当にそう見えたのだから仕方がない。
そして、ようやくハボックを正面から見ると、人の悪い、イタズラを思いついた子供のような顔で笑った。
「待っていたぞ、ハボック少尉。当然ながら、今から君の仕事は私の書類処理の助手だ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、なんでそんなことになるんですか」
「お前の笑い声のせいで書類が崩れたんだ。手伝うのが当たり前だろう」
「ひとのせいにせんで下さいよ。崩したのはあんたでしょうが」
「いや、お前が笑わなかったら崩れなかった。だから悪いのはお前だ」
まるで以前からの付き合いのように滑らかな応酬の後、部屋に銃声が響いた。
「気が合うようで大変結構ですが、書類は期間内に提出していただきます」
氷の女はそうのたまった。
言われて初めて、ハボックはこの上司を気に入った自分に気がついた。
そして、聞き逃しそうになった言葉を、中佐に聞き返した。
「待っていたっていいましたか? 中佐さっき」
「なんだ、いきなり言葉遣いを改めなくてもかまわないぞ。お前が上司に対して反抗的だというのは知っているからな。だから選んだんだ」
「俺、懲罰でここに来たんじゃないんですか?」
選んだという言葉に、ハボックは唖然とした。
「まったく失礼だな。無能な人間を側に置くほど私は心が広くないんだ。お前の経歴ぐらい調べたに決まってるだろ。能力はきわめて高いが、上司には反抗的で同僚にも部下にも好かれている。理想的だ。お前のことを馬鹿な連中たちが扱いあぐねていると聞いてな、うちで引き取ることにしたんだ」
感謝しろといわんばかりに胸を張る上司の子供っぽさに、ハボックは内心でやはり大笑いした。
それが、ハボックにとってのロイ・マスタングという人とのはじまりだった。
本当に、最初は好奇心だけだったのだ。
だけどそれが、興味だけではすまなくなったのは、他でもない、エドワード・エルリックの存在にあった。
新しい国家錬金術師をスカウトにロイとホークアイ中尉が出かけた頃、ハボックは既にロイの野望を知っていた。
その上で、ついて行こうと決めたのは、ロイが信じられると思ったからだ。
どんな力があろうと、信用できない人間に命はかけられない。
短い付き合いの中で、ハボックはロイという上司はかけるにたる人だと、自分の目で実際に確認し、確信した。
そのままだったなら、他の同僚と同じく、なんの疑問もなく、道具となりきることができただろう。
部下を道具にしない人だと分かっているからこそ、それに徹することができる自信があった。
そして、今まで見たこともない厳しい表情でふたりが戻ってきたとき、その自信はあっけなく揺らいでしまった。
エドワード・エルリック。
たった12歳で国家錬金術師となった少年は、瞬く間にロイの日常に入り込んできた。
禁忌を犯したふたりの兄弟は、その強い絆と意思で、揺ぎ無い野望を抱えるロイすら惹き付けてしまったのだ。
それは、憐憫でも、使える人材への信頼でもなく、錬金術というハボックには理解できない何かが媒介する確かな何かだった。
それが何かはハボックにはわからない。
だが、あの小さな少年とロイの間には、誰も入り込めない何かが存在することだけが理解できた。
ロイとエドのふたりを目にするとき、微かな痛みを感じる自分に気がついたのは、それから何年かたち、ロイが大佐になった後だった。
その痛みが嫉妬だとわかったのは、つい最近のことだ。
「子供の成長ははやいよなー」
「なんだよいきなり」
「んー大将がさ、時々いっぱしの男の顔してんの見るとさ、時の流れを感じてしまうわけよ」
東方司令部では、最近事件らしい事件もなく、下っ端にはたいした書類仕事もないため、黙っていても書類が溜まる上司とは違い、ハボック以下ロイの部下はのきなみ暇だった。
「そりゃ、まあ、もうすぐ15だしな。いろんな経験している分、大人になるのも早いだろ」
「ああ、ブレダもそう思うか? そうなんだよな、困るよなぁ」
なぜ、ハボックが困るのだ。
ブレダ少尉は不審げに同僚を見つめた。
そういえば、最近のハボックと、そして大佐の挙動が変だと思い、何気なく、本当に深い意味はなく、ブレダはハボックにたずねた。
「そういや、お前、大佐と何か賭けてんだって?」
「んー、あの人が俺のものになるか、俺があの人のものになるかなー」
何も考えていないそのままの発言に、ブレダと周囲は盛大に吹き出した。
全員可哀想なものを見る目つきで自分を見ていることにも気づかず、ハボックは視察に出ている大佐のことを考えた。
ホークアイ中尉がついているのだから、大丈夫だとは思うが、何故自分が側にいられないのか、自分はあの人の護衛ではなかったか。
そんなことを考えていたハボックは、自分の出した賭けのせいで遠ざけられているのだということに気がついていなかった。
「お前、前からそうじゃないかと思ってたが、本当に馬鹿だったんだな」
「んー最近俺も自分でそう思う」
ブレダの哀れみを含んだ声にも生返事で答えて、ハボックはタバコの煙を肺に吸い込んだ。
本当は、勝負の行方などわかっていた。
自分はあの人の犬でいい。
ただ、自分の言葉で少しでもロイを揺るがすことができないかと思ったのだ。
あの人が、評判どおりの本当の女たらしだったらよかったのにと、ハボックは思った。
だったら、こんな望みのない不毛な気持ちに気がつくこともなく、子供に嫉妬するなどというみっともない真似もせずにすんだのだ。
いや、エドワード・エルリックは子供ではない。
ロイを前にすれば、彼はもう立派な男の顔をするのだ。
たとえまだ、本人さえ気がついていなくても。
あの人が見ている場所には届かない。
それは別に苦しくも哀しくもなかった。
部下として、最後までついていくことを選んだのは自分だ。
ただ、あの人に届いてしまうかもしれない子供の成長を、目の前にするのは少しきつかった。
(俺を、あんたの犬にしてください)
それだけで十分だとハボックは思った。
銜えタバコの灰が落ちかけているのにも気がつかないハボックを見て、その場にいた全員がため息をついた。
「本気で馬鹿だよこいつ」
ブレダの声が、全員の心の声を代弁していた。
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