腕の中で、小さな身体が熱を失っていく。
『た…かちゃん…ないちゃ、めーなの。ののみ苦しくないよ。だから……』
だから、あの後何を告げようとしていたのか。
泣くなと、あの子は言った。
だから泣かない。
泣く資格など、自分にははじめからないのだから。
少女を抱きしめていた腕がメキメキと音を立てて膨れ上がっていく。
鋭い爪が長く伸びた豪腕で覆った目は、真紅に輝いている。
憎しみの色。幻獣の色。
捨てたはずの彼の本性。
守るべきものを失った男は、涙の代わりに再び殺戮の戦鬼へと変貌した。
もともと幻獣に変化可能な第五世代の肉体に憑依した精神生命体である瀬戸口は、千年の時を超えて本来の姿を取り戻そうとしていた。
泣くことを許されない鬼の咆哮は、まぎれもない慟哭だった。
忘れられない存在がある。
シオネ・アラダ。
人族の代表にして、絢爛舞踏と呼ばれた最初の女神。
己の出自を、彼はもう覚えていない。
第五世界と呼ばれるこの世界が故郷ではないことは覚えているが、あしき夢と呼ばれる自分たち精神寄生体がどこからやってくるのか、今瀬戸口と呼ばれる個体は知らない。
人間を滅ぼすため存在した彼が、よき夢と呼ばれる神族に寝返ったのは、一人の少女の存在ゆえだった。
あしき夢も、よき夢も、精神生命体であることに変わりはない。
肉体はただの器でしかなく、憎しみと欲望、心の中の暗い部分が、精神寄生体をあしき夢とならしめている。
かつて、彼は醜く知能の低い鬼だった。
寄生体の性格や知性は、器に大きく作用される。
だから、かつての自分自身を、瀬戸口はあまり覚えてはいなかった。
鬼族は、強力な力を持つが、その姿は醜く低い知性しか持ち合わせない。
自分が何を憎んでいたのか、あの当事でさえ既におぼろげだった。
ただ、人族の肉体を裂き、食い尽くすことに、その流れる赤い血に快感を覚えていたことだけは、今でもはっきりと思い出せる。
金の鎖に繋がれた至高の女神は、そんな自分に手を差し伸べてくれた。
彼を哀れみ、抱きしめてさえくれたのだ。
心も姿も醜い鬼を。
瞳が美しいと言ってくれた。本当のあなたは優しいのだと。
彼女のためならなんでもできた。
それが愛だったのかはわからない。
鬼に人の愛は理解できないから。
それでも、自分には彼女しか意味のあるものがなかった。
千年を越える時間、アラダとの約束のためだけに生き続けてきた。
崇拝し、彼女だけを支えにしてきたのに、彼女と同じ人族が結局彼から彼女を奪った。
あしき夢との戦い以外は、冷たい牢獄で鎖に繋がれ、食事には毒を盛られ、守るべきものたちから非道な仕打ちを受けてもなお、シオネアラダは彼に人間を守ってと願ったのだ。
滅んでしまえと、何度思っただろう。
女神を殺した身勝手な人間どもへの憎しみを、押さえ切れなくなりそうになったことは何度もある。
だが、彼女との約束が彼を縛った。
忠誠を誓ったただひとりの女のために、己の憎しみを抑えるため、彼は女と子供の守護者となることを己に課した。
弱く、穢れないもののためなら、己を失わずに戦えると思ったのだ。
長い長い時間。
何度も身体を入れ替え、この時まで生きてきた。
人族への絶望は、憎しみを超えて彼を蝕んでいた。
人を滅ぼそうとは思わなかったが、積極的に守ることを彼は厭った。
瀬戸口という自殺した少年の身体に入り込む前、最強の幻獣である竜となった親友をその手にかけたときから、彼は戦いから身を引こうと思っていた。
それができなかったのは、多分未練のせいだったろう。
戦いに対する虚脱感は消えなくとも、あの日、どこから情報を手に入れたのか、芝村一族岩田家の男が彼に与えた少女のために、瀬戸口は逃げることができなくなった。
シオネアラダ───彼の女神のクローンであるののみを少しでも長く生きながらえさせるために、瀬戸口は再び絢爛舞踏となった。
だが、それも徒労に終わった。
ののみはもういない。
あの戦場で、ののみは彼の腕の中で死を迎えた。
同調実験の使い捨ての道具だった少女の生を繋ぐ薬を手に入れるために、瀬戸口は誰にも知られずに夜を戦っていた。
芝村の子飼となり、死の騎士として幻獣と戦う理由はもうない。
結局、自分は鬼であった頃と何も変わってはいなかった。
変わったと、思いたかっただけなのかもしれない。
どれほど幻獣を殺しても、心の飢えは収まらなかった。
それどころか、戦場に出るたびに飢えが大きくなるのを抑え切れなかった。
シオネアラダ。シオネアラダ。シオネアラダ。
呪文のように何度繰り返したか。
多分まだ、過去の約束だけに縛られていた方が狂気を抑えられたのかもしれない。
彼女の身代わりとして、ののみを愛し、壬生屋があれほど求め女神の転生であることに気がついたとき、瀬戸口はシオネアラダを求めていた理由を見失った。
愛ではなかった。
女神への執着は、ただ自分が生きるための理由に過ぎなかった。
彼女を崇拝していたことに嘘はない。
今だって変わりはないのだ。
だが、彼が心を捧げた女性は遠く過去の存在で、失ったものは二度と取り返せなどしないことを、ののみを愛しく思ううちに忘れてしまっていた。
クローンのののみも、生まれ変わりの壬生屋も、どちらも彼の女神にはなりえなかった。
わかっていたのに、どちらにも惹かれた自分を、苦く思い返す。
結局どちらも愛せなかったくせに、どちらにも救いを求めようとした愚かで醜い自分は、芝村舞が言うとおり卑怯で弱いのだろう。
あの女は、いつだって正しい。
瀬戸口の迷いや弱さを許さない。
最初に彼が思い込んでいたような芝村らしさが舞にないことを、ようやく瀬戸口は認めつつあったが、彼女の正しさゆえに、瀬戸口は芝村としてではなく舞自身を憎むようになっていた。
いや、それは後付けの理由に過ぎない。
わかっている。
今でもまだ自分が死ねない理由。狂い掛けた理由。そして狂いきれない理由。
舞が愛し、舞を愛する唯一の存在が、瀬戸口を縛り付けている。
ののみを永遠に失ったのに、壬生屋はまだ面会謝絶だというのに、瀬戸口は浮かんでくる少年の姿を打ち消せない自分をあざ笑った。
「速水───!」
泣くことができない己を、瀬戸口は哀れだと思った。
予感があった。
許されないことだと知りながら、それを望む自分の浅ましい思い込みだったのかもしれないが、その日が来たのだと瀬戸口は恐怖した。
ののみが死んだのは、誰のせいでもなく自分のせいに思えてならない。
いや、実際そうなのだろう。
芝村は、彼を縛る新たな理由を見つけてしまった。
だからののみは死んだのだ。
彼女を殺したのは、自分と速水だ。
瀬戸口の想いを知らない速水に罪はなくても、それは単に事実だった。
扉が鳴っている。
「瀬戸口くん? いるんでしょう?」
聞こえてくる声が、この期に及んでも甘く響くのが苦々しい。
可哀想に。
瀬戸口は思った。
自分はきっと速水にひどいことをするだろう。
瀬戸口を滅ぼせる力をもちながら、速水はまだ完全には覚醒していない。
そして、自分は速水の残酷な優しさにつけこむのだ。
遠い日の女神の止める声が聞こえてくる。
その声を無視して、瀬戸口はゆっくりと扉に近づく。
悔いることすらもはや許されない。
これはきっと愛じゃない。
こんな醜い欲望が愛であるはずがない。
それでも、速水を欲しいと思う自分を、もう瀬戸口は止められなかった。
(ののみ。どうか、俺から速水を守ってくれ)
「どうした坊や」
瀬戸口は暗い視線を速水に向けた。
運命など信じない。神は世界を救ったりしない。
それでも、罪が裁かれねばならないのなら、全ての罰を自分に与えて欲しい。
世界が全て滅びても、速水が欲しいと哀れな鬼は存在しないだろう何かに願った。
この日、「花岡童子」は滅んだ。
死の舞踏が青の魔王に唯一の忠誠を誓うのは、もう少し後のことととなる。
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えっと、管理人はののみが大好きですよ。
でもお話の都合上、ののみと舞とあとたくさんの人たちには死んでもらわないとならないのです。
ちなみに花岡童子の赤と青は対の話になっております。
精神的瀬戸口いじめを推進してます。
魔王と駄犬がコンセプトです。
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