普段から将来はお嫁さんかパン屋になりたかったと公言している速水の料理は、誰もが認めるぐらい美味である。
何故か料理が趣味という中村に教わって、もはや達人の域にまで達していると評判だった。
実際にその恩恵を得ている人間は多くはないが、その彼らが速水の手作り料理を奪い合う醜い光景を毎日のように見せられる小隊メンバーとしては、速水の幻の手料理に過大な妄想を抱いても当然だろうというのが大方の意見である。
速水の手作り弁当の恩恵に逸早くあずかったのは、当然かもしれないが芝村舞であったが、この段階ではまだふたりはつきあっていたわけではない。
芝村に関わるなという誰の忠告もぱややんと受け流し、芝村の求めるパートナーとして高い要求に答えようとする姿は、反感を超えていじらしささえ感じさせる。
「芝村」に対して、内心はともかく、表面上はなんの偏見ももたない速水を人がよすぎると最初は目を顰めていた小隊メンバーだが、常人には理解しがたい芝村理論と芝村言語を必死で理解しようとして、それに答えてなお努力を惜しまず舞の後を追いかける姿に、何故か真実の愛の姿を見たような気になってしまっていた。
あながち間違いではなかったが、かなり誤解が混ざっていることを本人たちも周囲も気がついていない。
舞は速水を相棒として正当に評価し、速水は打算と憧れと利用価値を考えて、他の誰の評価より「芝村」舞という存在を把握するべきだという本能的直感で動いていた。まあ、少なくともこの時点では。
そして舞は、「芝村」に利用価値を求めるのは当然だと考えていたし、自分を利用しようとするとは使える男だと「芝村」的に速水に高い評価を与えていた。
もちろんこれも恋愛感情ではない。
だが、ごく普通でない環境と価値観で生きてきた二人の行動や言動は、知らないうちに周りによって愛情に変換されてしまっていた。
ようするに、公認カップルとみなされていたのだが、ふたりには知る由もない。
「なに作ってんだ。バンビちゃん♪」
「うわぁっ!」
背後からいきなり抱きつかれて、速水は砂糖をひっくりかえしそうになり、かなり本気で瀬戸口に殺意がわいた。
「こぼしたら、弁償してもらうとこでしたよ。瀬戸口さん」
「あ~そりゃ、ちょっと無理かも」
この時代砂糖は禁制品で、甘味料はサッカリンなどが使われている。
本物の砂糖は、闇マーケットでかなり法外な値段で取引されていて、速水が手にしていたのは、給料とバイトと貢物でようやく手に入れた貴重品だ。
砂糖のために出世したといっても過言ではない。
人には言えない手段まで使って手に入れた材料を駄目にしたとなったら、瀬戸口に死んでもらっても割に合わないぐらいだ。
もちろん瀬戸口十翼長の給料で弁償できるものではなかった。
いつもならさらにスキンシップを求める瀬戸口だが、いつになく本気っぽい速水の冷たい視線に一瞬固まった。
速水のぱややんが演技であることに最初から気がついている瀬戸口だったが、それさえも演技だとわかっていても速水の機嫌を本気で損ねるのは嬉しくない。
仮面だとわかっていても、瀬戸口にとっても速水の存在は東原と並んで小隊の二大オアシス。不毛ではあるが、演技がお互いさまなのだから表面上でも仲良くしていたい。
「え~っと……料理中にふざけてすいません。だから許してくれ坊や!」
土下座でもしかねない様子の瀬戸口に、ため息をもらし軽く無視して作業に戻ると、わざとらしい嘘泣きが食堂に響いた。
「坊やが冷たい……」
「誰が坊やですか、暇ならののみちゃんに相手してもらえばいいでしょ。僕は忙しいんです」
見ればわかるでしょと言われても、瀬戸口にはちっともわからなかった。
料理なのはわかる。
しかし、砂糖に小麦粉にバターと牛乳を使って何を作ろうというのか。
ちなみに、瀬戸口に料理知識は存在しない。
千年も無駄に生きてきた証拠だろう。
「味見ぐらいならさせてあげますから、黙っててください」
僕だってはじめてつくるんだからと速水が呟いた。
冗談ではなく、速水は本気で燃えていた。
今までの手作り弁当とは気合の入り具合が違う。
いや、今までだって舞への弁当に手を抜いたことなどないが、速水にとってこれは人生をかけた勝負なのだ。
滝川と新井木に先輩と慕われる無口でシャイなスカウト来須銀河と芝村舞の関係はまったく知られていない。
いや、関係といえる関係があのふたりにあるのかどうか、速水にもよくわからない。
ふたりがともにいることは多くはない。
スカウトとパイロットでは戦場での打ち合わせ以外に接点はほとんどないといっていい。
事実、事実小隊での時間のほとんどを舞と共有しているのは、3号機パイロットとしてパートナーを組んでいいる速水自身であり、舞と来須がいっしょにいるところなど数えるほどしか見たことがない。
それが速水にはどうしても無視できない。
だいたい、誰かが舞といる姿自体があまりに見慣れないものだったというのに、二人の間には違和感が何一つないのだ。
舞に感じるのはいつだって違和感だった。
どこにいても、何をしていても、どこか似合わない。
それが芝村舞という少女だった。
その違和感こそが彼女を孤立させている最大の要因だというのに、来須といるとその違和感が消えていることに誰も気がつかないのはどうしてだろう。
ふたりの空間はあまりに自然すぎて、かえって人の意識にひっかからないようだ。
来須を心底尊敬しているらしい新井木や滝川も、来須のことで舞に文句を言ったことがない。
自分にはさんざん舞に近づいても碌なことはないと言ってきたくせに、何故来須と舞のことは気にならないのだろう。
一度気になると、どうしても無視できない。
何より舞を足がかりとして「芝村」に食い込もうとしている速水の計画に大きく差し障りがある。
舞の特殊さにつきあえるのが自分だけだと考えていた速水にとって、来須というダークホースの存在はショックだった。
俗にそれは嫉妬と呼ぶものだったが、恋愛感情を知らない速水にまだ自覚はない。
野望実現のための手段として舞を見ている(つもり)速水は、障害物を排除するために敵を篭絡することにした。
邪魔者は消せが信条だが、のちのちのことも考え、自分のものにしてしまうのが一番だという結論に達したわけだ。
決心してから実行までの速水の行動はすばやかった。
来須の好み、行動パターン、交友関係、誰にも知られずそのすべてを調べ上げた今の速水は、滝川・新井木を大きく引き離し、来須銀河マニアと化している。
もちろん、来須本人とさりげなく親しくなっておくことも忘れていない。
自称速水の親友の滝川より、今では来須と過ごす時間の方が長いぐらいだ。
舞優先なのは当然だが。
「それで、芝村の姫さんへの貢物じゃなきゃ、何を作ってるんだ? バンビちゃん」
「見ればわかるでしょ」
冷気が漂っているが、瀬戸口には見てもわからない。
「菓子類は門外漢なものでね」
「女の子へのプレゼントとしては、甘いものって定番じゃないんですか?」
「レディへの贈り物は、もっと気の利いたものを送るよ。俺はな」
手作り菓子ってのは坊やらしいがといわれたが、愛の伝道師を語る男とそこで張り合うつもりはない。
速水が落したいのは、不特定多数の女の子ではなく、難攻不落の芝村舞であり、もっかの目標は白兵戦のプロ(男)なのだ。
「余計なお世話です。瀬戸口さんこそ、ののみちゃんにリボンあげて壬生屋さんにまた斬られてたじゃないですか。いつか本気で死にますよ」
不潔ですと叫びながら日本刀を振り回す壬生屋の姿は、すっかり小隊の名物となってしまった。
年齢を問わず女性に優しい瀬戸口には珍しく、壬生屋にだけは態度がきつく、どうやら本気で苦手にしているらしい。
ならば彼女の前で自分に抱きつくようなまねをしなければいいのにと速水は思ったが、他人のことなど知ったことではなかった。
瀬戸口が自分を監視していることを、とっくに速水は気付いている。
敵と判断するには、その視線は一定していないので、茶番と承知で平等に接してやっているだけだ。
瀬戸口の中には深い闇がある。
それは速水の中にもあるものだった。
同類嫌悪というやつかもしれないと速水は考えている。
自分だけが大切な速水は、本気で他人のことなどどうでもよかったが、瀬戸口は速水の中の闇に自分自身を見てそれを嫌悪しているらしい。
本人には自覚がないらしいが、教える義理もなかったので、いつものとおり適当に受け流して作業を続けた。
舞の好物が紅茶であることを知るものは少ないが、来須の好物も紅茶であることは、案外知られていない。
速水がそれを知ったのは、いい茶葉が手に入ったと来須が舞に自ら紅茶を淹れているのを偶然見てしまったからだ。
仕事時間が終わった食堂での光景だったが、それがあまりに衝撃的映像だったことよりも、給仕する来須が手慣れていることに驚いた。
ロケットランチャーを片手で軽く扱う手は大きくて指も太く荒れていたが、長い指は繊細といっていいくらい滑らかで、その動きに一瞬見惚れてしまった。
どこもかしこも女のような自分とはまったく違う、逞しい男のものとはっきり分かる手は、それでもとても美しく見えた。
淹れ立ての紅茶を口にした時、舞が満足そうに笑っていたのを憶えている。
「おまえが淹れたものが一番だ」
舞が言うと、いつも無表情な来須の口元が笑みの形に歪んだ。
遠目だったが、その時はじめて速水は来須の笑顔を見たのだと思う。
ショックだった。
何に衝撃を受けたのかもわからないが、思わず速水はその場を逃げ出してしまった。
その日から、紅茶のおいしい淹れ方の研究が速水の日課に加わった。
「毒見役かい俺は」
「欲しくないならいいんですよ別に」
きれいに焼きあがった搾り出しクッキーは、速水にとっても快心のできだった。
おそるおそる手に取った瀬戸口だったが、ひとつつまんだ途端、すぐにも残りに手を出そうとしたので、速水がのばした手を叩いた。
「味見だけって約束でしたよね。瀬戸口さん? こっちはののみちゃんの分ですから、瀬戸口さんから渡してあげてください」
「レディへの贈り物を横取りするわけないだろ。しかし、東原には甘いよなおまえさん」
「瀬戸口さんほどじゃないですよ。けど、彼女に冷たくするのは僕じゃなくても難しいんじゃないかな」
「たしかにな。坊や。芝村に関わるなとはもう俺もいわんがね。あの子だけは、裏切らないでやってくれ」
「瀬戸口さんが何を言ってるのかわからないけど、そんなことは舞が許さないですよ」
舞が望まないことを自分はしないとにおわせながら、速水は食堂をあとにした。
「休憩しない?」
来須から誘われて校舎裏で懸垂に付き合った後、かなり決死の思いで速水は切り出した。
何故こんなに緊張しているのかわからなかったが、バッグの中には今日のために用意した茶器セットと高級茶葉、そして必殺の手作りクッキーが準備万端と出番を待っている。
打倒来須!
本当なら一番に舞に腕前を披露したいところだったが、来須の基準をクリアしなければ舞の評価は得られない。
幸い今日は舞は用事で学校に来ていない。
いつになく気合の入った視線に気がついたのか、少しだけ無言のまま速水の顔を見つめると、来須は黙ってうなずいた。
一方的に速水が話しかけることで友人関係がなりたっているふたりだったが、来須の沈黙が重いと感じたことは一度もなかったことに、今頃速水は気がついた。
来須はたしかに無口だ。
だが、言葉にされたのと同じくらい、いや、速水にとってはそれ以上に、来須の意思表示はよくわかった。
微かな表情の変化や、静かな身振りによる雄弁な言葉を、いつのまにかテレパシーのように感じ取れる自分を今まで不思議に思わなかった。
考えるといきなり怖くなって、速水は怯えそうになった。
来須の前では、演技していなかったことに気がついてしまったからだ。
「来須も紅茶好きだったよね。来須ほど美味くは淹れられないかもしれないけど、お茶菓子も作ってみたんだ。疲れたときは甘いものがいいっていうし。よかったら食べてみて」
はじめて来須と話すような気がする。
来須が何を考えているか、そればかりが気になって、上手く紅茶を淹れられたかわからない。
こんな動揺ははじめてだった。
気にした様子もなくカップに口をつける来須を、つい見守ってしまう。
中身を口に含むと、少し驚いたような気配が伝わってきた。
何故かは知らないが、脈拍が異様に上がっているのが自分でも分かる。
紅茶を半分ほど飲み、山積みのクッキーを味わう姿は屈強な肉体に似合わず、やはり優雅だった。
さすがイタリア産硬派。
わけのわからないことを考えてしまい混乱する。
僕は何がしたかったんだっけ。
本気で最初の目的を見失った速水は、ひたすら目前の来須の一挙一動に釘付けになってしまった。
客観的に見るととても異様な光景だ。
紅茶の味も自慢のクッキーの味も今の速水にはわからない。
なんだか顔が熱い気がする。
「あのさ。おいしくなかったかな」
声が震えていたかもしれない。来須の反応が気になって仕方がなかった。
最初の目的はもうどうでもよくなっている。
「旨い。少し驚いた」
ああ、笑った。
来須の口元に笑みが浮かんでいる。
「茶に関しては俺も一応は自信があったが……一番の座はどうやら譲るときがきたらしい」
舞の言葉が浮かんで、速水は胸が苦しくなった。
「きっと舞も驚く」
「来須も舞って呼ぶんだ」
胸が痛い。
どうして。
「舞は俺の恩人だ」
「……恩人って?」
「ヨーコを助けてもらったことがある。借りは返す」
これほど来須が自分のことを話すのは珍しかったが、それ以上踏み込むことは躊躇われた。
聞けばすべて教えてくれそうで、かえって怖い。
言えないことが多すぎる速水には、来須の率直さがきつい。
舞と来須の関係は、自分が勘繰っていたようなものではないようだが、眩暈と動悸はひどくなるばかりで、息ができなくなりそうだ。
「舞はお前を高く評価している。俺もそれに同意した」
「よくわからないけど、褒められてるのかな」
「俺たちは世辞は言わない」
俺たち。
どうして、こんな小さな言葉にいちいち引っかかるのだろう。
来須は舞と同じ人種だ。
今までの態度でわかってもよかったのに、ライバル意識のせいで見誤っていた。
だからこの言葉にも他意はない。
わかっていても、どこかが痛かった。
顔が見たいと思った。
普段帽子に隠された来須の素顔が無性に見たかった。
「来須……いや、なんでもない。クッキーもっと食べなよ」
何故か惨めな気分になると、ポンと頭の上に何かが乗せられた。
「これ……?」
来須のトレードマークの帽子が自分の頭に乗せられている。
視線をあげると、来須の引き締まった端正な顔が目に入って、速水は呆然と見入った。
短い銀色の髪が縁取る大人びた怜悧な顔は美貌と言っても言い過ぎではない。
何かを削ぎ落としたような厳しい顔つきに甘さはなかったが、人形めいた容姿が戦士としての厳しさによって奇妙に魅力的な陰影を刻んでいる。
冷たい印象を与えかねないアイスブルーの瞳が、暖かな深い感情を込めて速水を見つめ返す。
許されていると速水は思った。
速水が本当はどんな人間でも、来須は速水という存在を許している。
目は口ほどにものを言うというらしいが、これほど雄弁な瞳を速水は見たことがない。
だから隠しているのかと思った。
言葉などなくても、これでは丸分かりだ。
ああ、来須は───。
「お前になら……背中を任せられる。お前たちの背中には俺がいる」
聞いたら駄目かな。聞かない方がいいのかな。
「来須。僕のこと好き?」
「ああ」
僕は君のなに?
落すつもりだったのに、落されたのはどうやら自分らしいと速水は心の奥で苦笑した。
「もういいや」
演技じゃない笑顔を向けると、見惚れるほど見事な笑顔が返ってきた。
ティータイムに必要なのは、甘いお菓子と君の笑顔。
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甘甘を間違っていますか?
砂糖が吐けるほど甘くしたつもりなんですが。
これが私の限界か。
瀬戸口はなんでいるんだろう。
薄暗い話が基本なので、ラブ修行中です。
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