青の厚志、あるいは青の魔王と呼ばれる芝村の新たな主は、手のかかる大型の獣を飼っている。
獣の名は瀬戸口隆之。
千年の時を超える鬼にして、四代目絢爛舞踏。
夜を狩る死神。
そのするどい牙と爪を知るものはわずかだが、少なくとも芝村の上層部において、瀬戸口の正体は公然の秘密であった。
芝村の犬とも呼ばれていた男だったが、厚志が芝村となってから、その生殺与奪権はすべて厚志が握っている。
青の厚志に魅入られ、牙を折られた哀れな猟犬というのが、現状を知る多くのものの意見だったが、それがほぼ完全に事実であることを正確に分かっている者は、ほとんどいないといっていい。
ふたりは互いの関係を隠しているつもりもなかったし、態度はあまりにあからさまだったが、その関係というものを理解している人間は、厚志の側近にすらいないといってもいい。
瀬戸口隆之の現在の職業は、身辺警護役という名の厚志のペット兼愛人である。
瀬戸口の朝はコーヒーの匂いではじまる。
鼻孔を刺激する香ばしい匂いが覚醒を促して、しばし幸せな気分を味わうと、瀬戸口の顔がにやける。
毎朝のことだが、これを幸せだと感じられるようになったのは遠い過去ではない。かつての葛藤はともかく、今彼は紛れもなく幸福だった。
食欲を誘う野菜入りオムレツの匂いと、サラダを用意している包丁の音が聞こえた頃、瀬戸口は名残惜しい温かなベッドから床に足をおろした。
かつては昼のやるきのないナンパ男と、夜の死の舞踏という二重生活を送っていたなごりから寝坊が癖になっていた瀬戸口だが、厚志の名目上のボディガードとして同じ部屋に住み込むようになってから、さすがにある程度規則正しい生活を送っている。
心がけているわけではなく、そうしないと命の危険にさらされるからだ。
以前厚志を抱きしめたまま眠りについた瀬戸口が、朝になっても目を覚まさず、抱きしめた手を少しも弛めなかったため、あやうく精霊手で消滅させられそうになったことがある。
命の危機と破砕されたベッドはともかく、それ以来どんなに疲れていても、寝るときは自分の部屋に戻ってしまう厚志の態度に深く傷ついた瀬戸口は、それ以来朝食の時間には必ず起きることを固く誓っていた。
そんな誓いをしたところで、厚志が一度決めたことを撤回する訳もないのだが、青年となってなお、あつらえた様にすっぽりと腕に納まる感触を諦められない瀬戸口は、今日も悔い改めたポーズを態度で表すために身支度を整えてからダイニングキッチンに向かった。
「おはようございます閣下」
優雅に挨拶すると、すでに見慣れた皮肉な微笑が返ってくる。
「おはよう瀬戸口」
「今日も鮮やかなお手並みで」
「まあ、この程度の趣味は許されてもいいはずだろう?」
軽く二十人は座れるだろう食卓には、色鮮やかなジャガイモ入りオムレツ、ツナとトマトのサンドイッチ、冷たいジャガイモのスープ、手作りシソドレッシングのかかった豆腐のサラダ、天然果汁のリンゴジュースが並んでいる。
人類優勢で物資に余裕があるとはいえ、あまりに贅沢な朝食だが、瀬戸口にとってなにより贅沢なのは、これが速水九州方面司令長官殿の手作りだということである。
かつてお嫁さんになりたかったという長官は、芝村となった今も家事一般をプロ並みにこなす。中でも料理はかかすことのできない趣味であり、精神安定の役割もあるため厚志は自分の食事は自分で作る。
その相伴に与る瀬戸口は嬉しい限りだが、裏の事情を考えると始めは素直に甘受することができなかった。
確かに料理は厚志の趣味だ。
だが、厚志が他の人間の作ったものを口にしないのは、毒殺を用心しているためでもある。
幻獣の侵攻により一時は撤退をよぎなくされた九州のほとんどを人類側に取り返した厚志は、英雄であると共に恐れられている。
厚志をが最初に魔王と呼ばれたのはいつだったか、それは瀬戸口自身の過去でもある。
協力者や信奉者が増えたとはいえ、依然として厚志には敵が多い。
その最たるものが、他ならぬ「芝村」だ。
「座れよ。冷めるだろ」
毎朝厚志は瀬戸口のためにコーヒーを淹れる
瀬戸口のためだけに。
自惚れではなく、実際厚志は瀬戸口以外の人間にコーヒーを淹れたりしない。
厚志の前には、澄んだ紅茶が桜に似た匂いをただよわせている。
厚志自身かなりの紅茶党だが、彼の失った大事な人間たちも紅茶好きが多かった。
今でも茜や遠坂に、その腕を振舞っているが、あくまで自分が飲むついでだ。
コーヒーは瀬戸口のためだけ。
その特権に気付くまで、ずいぶん長い時間がかかったが、瀬戸口はその時間を惜しいとは思わない。
気が狂うほどの失われた彼らへの嫉妬があったからこそ、朝のコーヒー一杯で瀬戸口は幸せになれるのだから。
確かにあった絶望と憎悪と狂気は、いつかまた瀬戸口を食い荒らすのかもしれない。
それでも、今の瀬戸口は自分の価値を信じている。
口にはしない。言葉で伝えてもらえることは決してありえない「何か」がそこに存在することを、ようやく信じられるようになった。
ささいなことだが、瀬戸口にとってその確認が厚志が淹れてくれるコーヒーだった。
腑抜けた表情で嬉しそうにコーヒーを見つめている瀬戸口を、毎朝のことながら馬鹿だなと、冷静に厚志は観察していた。
瀬戸口以外の人間には誰にでも見えるだろう尻尾を千切れんばかりに振っている姿が見えて、心の中だけでため息をついた。
もともと賢い男ではないと思っていたが、いつからここまで馬鹿になったのか不思議でならない。
以前はこれでも危険な生き物だったはずだが、今ではその面影の片鱗さえうかがえない。参謀の茜などは公然とこの男をペット呼ばわりしているが、訂正できずに苦笑するしかない。
そのぐらい瀬戸口の厚志への懐き方はあからさまだった。
それでも、長い付き合いの茜や遠坂ですら瀬戸口を厚志の愛玩動物扱いはしても、瀬戸口が彼の愛人を兼ねていることには気がついていないのだから、呆れるより笑ってしまう。
気がついていたのは、今はもういない新井木と来須だけだった。
関係を隠しているつもりはまったくない。
この馬鹿な男との付き合いは、厚志の中で既に生活の一部と化していて、ごまかす必然性がまったく思い浮かばないぐらい自然なものになっていた。
戦闘のためだけに遺伝子操作された強化人間である第6世代は、モラルというものが甚だしく低下しているらしい。
対幻獣用の消耗品として工場で生産された自分たちは、戦争のための備品でしかありえない。
生殖能力を予め奪われて誕生してくる子供たちに未来などありはしないのだ。
あのガンパレードマーチのように、自分たちは戦うために生まれ、どこかの誰かのために死んでいく。
最後に生き残る男と女が、決して彼ら自身ではないことを誰もが知っている。
刹那的快楽を追うのも無理はないし、戦場では肉体的接触が正気を保つ手段となることもあり、軍部内での規律は守られているとは言いがたいのが現実だ。
舞のことを今でも愛していると断言できる厚志だったが、瀬戸口や他の男女との関係を後ろめたく思ったことはなかったし、心を移すことさえなければ舞と厚志の間では何も問題はなかった。
嫉妬深かったのは、かえって瀬戸口の方だっただろう。
今でこそ従順なペットという自分のあり方に満足しているようだが、来須がこの世界から消えるまでの瀬戸口の荒れようはひどかった。
舞を失った厚志よりも、瀬戸口の荒み具合の方が深刻だったかもしれない。
理由はわからないが、暗く深い場所に落ちていく瀬戸口の側は居心地がよかった。
厚志に向けられる狂気と憎悪と執着は、永遠に欠けてしまった何かに飢えていた彼の深淵を満たしてくれた。
その何かとは、芝村舞という名であらわすことができる。
舞の存在を説明することは、今でもできないが、厚志がかつて得て失ったと思ったものは、舞でしか埋まらないものだった。
舞を自分から奪った芝村と世界に復讐するため、舞との誓いを守るためだけに厚志は生き続けた。
生きるために、厚志が速水厚志であり続けるための瀬戸口は生贄だったのかもしれないと、今になって思う。
新井木は正しかった。
(オレに残されたオレだけのものが、この男しかいなかっただけのことだ)
愛でもなく、恋でもなく、刹那の快楽を得るためでもなく、速水厚志という虚像ではない本当の彼が、自分のものと言い切れるのは、瀬戸口しか存在しない。
結局手放すのが惜しいというだけなのかもしれない。
相手を支配しなければ安心できない彼にとって、瀬戸口を身近に置くことで、自分の影響力を最も実感できる。
そう、たった一杯のコーヒーで、自分が意味のある存在だということを確認しているのだから、我ながら滑稽なことだと思う。
「あっちゃん、また料理の腕があがったねぇ。特にオムレツの焼き加減が絶妙! いいお嫁さんもらえて俺様幸せだわ」
「誰が誰の嫁なんだ」
「あっちゃんが、俺の」
最近の瀬戸口は、初めて会った頃のような軽口をよくたたく。もちろんふたりきりの、それもコーヒーを淹れてやったときに限って……そのくせ、瀬戸口を喜ばしている最大の要因については触れようとはしない。
「つけあがるなよ。ペットの分際で」
多分瀬戸口は、言葉にすればそれを失うのだと思っている。
本当に馬鹿な男だと思うが、厚志も思い違いを訂正してやるつもりはなかった。
皮肉めいた笑いでも、厚志の笑顔が見られるなら、それだけで瀬戸口は満足だ。
厚志が変貌するたびに、新しい厚志に魅かれていく。
憎んだことさえあったのに、いつだって愛していた。
愛していると絶対に認められないほどに。
厚志の心に誰がいようと、自分が彼を愛していることは変わらないのだと気がついた時、瀬戸口はようやく楽になることができた。
縛られることは苦痛ではなく喜びなのだ。
愛されたいとずっと叫んでいたのは瀬戸口の方だったが、それが満たされず苦しんでいたと思っていたのが、本当は愛している自分を信じられないことが苦しかったのだと、長い回り道を経てようやく気付くことができた。
言葉にできないことは、もうつらくはなかった。
「では、あらためて閣下に誓いの口付けをお許し願えますか」
「許す」
伸ばされた手の甲に口付けすると、めったに見られない可憐な白い花のような笑顔が浮かぶ。
どこまでも続く地獄に向かわなければならない魔王陛下の機嫌の上昇に、なんとか成功したようだ。
待っているのが、どのような不快な現実でも、この微笑を浮かべさせたのが自分だと思うだけで、瀬戸口は幸せな気分になれた。
一方的に愛されることにも憎まれることにも厚志は慣れている。
だから瀬戸口の考えは馬鹿馬鹿しいと思っているが、その馬鹿なところがこの男の可愛いところでもあった。
馬鹿な子ほど可愛いというのは、案外真理だなと最近瀬戸口を見るたびに思う。
全身で厚志を愛していると叫ぶ声が、本当に相手に届かないと思っているのだろうか。
(───思っているのだろうな)
今でも舞を愛している。舞はもう厚志にとって欠くことのできない魂の伴侶なのだから。
だからといって、自分が瀬戸口を愛しく思っていないと何故思えるかの方が厚志には不思議でならない。
愛しているという言葉の代わりに、瀬戸口は何度も忠誠の言葉を繰り返す。
それは、瀬戸口にとって最大の誓いなのだろう。
愛することを怖がっていたのは瀬戸口の方で、厚志ではない。
舞を奪ったものたちを許す気も、彼女を忘れるつもりもなかったが、愛したことを後悔したことはなかった。
彼女への想いを忘れたとき、厚志は本当に舞を失うのだ。
自分は今でも舞を愛している。ならば、舞の存在はこの想いがある限り、永遠に消えることはない。
だから、いつか消えることが分かっていた来須を愛したし、瀬戸口を愛しく思うことも躊躇はなかった。
愛されたいと願いながら、愛することを望みながら、誰よりもそれを恐れる臆病な男を怖がらせないよう、厚志はさりげなく瀬戸口を甘やかすことを忘れない。
世界を手に入れるために手段を選ばない自分が、油断すれば食い殺されるかもしれない猛獣を手間隙かけて調教しているのだ。愛しくなかったら、誰がこんな面倒なまねをするというのだろう。
以前はともかく、利用価値よりリスクの方が大きいのだ。
瀬戸口隆之という存在は。
そもそも、側に置いているだけでも破格の扱いだというのに、コーヒーだけが与えられた特権だと思っている瀬戸口はつくづく馬鹿だと思う。
気がつくのも遅すぎる。
「まあ、気がついただけでも上出来か」
「なにか言ったか、あっちゃん」
「お前が馬鹿だということだよ」
ひどいと泣きまねをする瀬戸口を無視して、コーヒーをカップについでやると、やはり幸せそうに顔がほころんでいることに苦笑した。
安い男だ。そんなところもかわいいと思う自分は案外末期かもしれない。
愛しているわけではないと思う。だけど愛しい。
舞を愛したような、あんな愛し方を他の誰かとできるはずもない。
芝村舞は、奇跡のような存在だったのだから。
瀬戸口だって、舞と自分の間にあったような関係を望んでいるわけではないだろうに。
それでも厚志に関わるすべてに嫉妬する瀬戸口を可愛いと思うことは、愛しいと思うことと違うのだろうか。
傷つきやすく繊細で臆病な鬼は、想いを伝えないことで孤高の魔王への愛を守っている。
尊大な魔王は、卑屈で後ろ向きなペットが怖がらないように、残酷な愛情で鬼を空気のように包みこむ。
伝えることのない想いは、あるいはとても幸せなことかもしれない。
とりあえず、コーヒーの匂いにつつまれて、今朝のふたりはささやかに幸福だった。
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別サイトの相方、絵描きの唯人さんに捧げさせていただいた作品です。
甘甘ということでしたが、クリアできていたでしょうか。
速水と瀬戸口は何年たっても意思の疎通がありません。
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