バスはゆっくりとしたスピードで、しかし着実に、時間通りに彼を目的地へと運んでいく。
その場所は、このバスの終点ではなかったけれど、車中には彼以外の人影は運転手以外ひとりも存在しなかった。
いつものような感情が失せた無表情ではなく、ぽややんとした花のような笑顔を仮面のように貼り付けたまま、彼は内心では本気で怯えていた。
ズボンのポケットの中には、2500円と目的地までのバス代が入っている。
途中で下車した老婦人から貰ったおにぎりと、首に下げた深く濃く透明な青い石のペンダント、そして死体から剥ぎ取った制服。
それだけが、今の彼の全財産だった。
不審に思われそうなものは全て捨てた。
自分は、速水厚志という少年になりきれたはずだと彼は確信していた。
路上で潰れていた死体の名だが、仮の名としては悪くないと思っている。
徴兵期限ぎりぎりの短期間で、彼は速水厚志という人格を創り上げ、その人格になりきった。
生き延びることにおいては、天才的というより、狂気とも呼べる才能を持つ彼は、一般人に擬態するすべをすぐに覚え、悪意を持たれにくい印象のぼんやりとした平凡な少年という仮面を選んだ。
心のうちを隠すのは笑顔が一番適していると、短い外界での生活で彼は学んだ。
笑顔でさえいれば、人は必要以上の詮索をしない。
外の人間と出会うまで自覚していなかったが、彼はとても整った容姿をしているらしかった。
目立つ深い青い色の髪を黒く染めても、人の視線がつねに彼を追いかけた。
その視線を、追っ手のものかと怯えたこともあったが、すぐに自分にある種の魅惑のようなものがあることに気がついた。
女たちの羞恥を帯びた熱い視線と、男たちの欲望に満ちた行動が、それを厚志と呼ばれることになる彼に教えてくれた。
健全な性知識を厚志は持っていなかった。
幼い頃にラボに連れて行かれた彼は、実験体という名の獣だった。
女性化実験と職員による性的虐待は、ある意味で彼をとんでもない存在に仕立てあげたのかもしれない。
整った中性的な容姿と肢体は、男女両方に有効であり、虐待の中で身についてしまった他者への無意識の怯えが滲む凍りついたような無表情は、見るものの保護欲と嗜虐心を刺激するようだった。
最高にして最悪の麻薬だと、いつか職員の誰かがラボで呟いた言葉を思い出したのは、路地裏で自分の身体を夢中で貪る男を冷たく見下ろしたときだった。
当然、その男の有り金を全て奪うと、厚志は男をなんの感慨もなく殺して捨てた。
死体はどこにでも転がっている。
特に工作をする必要もなかった。
ラボでは、人の命ほど簡単に消されてしまうものはなかった。
貴重な機材の方が、人間よりよほど大切にされ、それは実験体だけではなく、職員でさえ例外ではなく、実験体だった彼の命はさらにその下にあった。
そんな歪んだ環境しか知らない彼に、殺人の禁忌は存在しなかった。
ただ、金を得るためにいつもいつも殺していたのでは、いくらなんでも足がつくことを考え、戦車学校に行く前に誘惑も殺人も自粛することにした。
誰もが惹かれずにはいられない媚薬のような自分自身は、彼の目的のためには邪魔なだけとなった。
少なくとも、速水厚志には必要ないものだと彼は判断した。
印象を完全に変えるのは、さほど難しくはなかった。
心の中で、今までに出会った人間のモデルを作っておいて、その人間の行動や言動、表情などをトレースするだけでいい。
それだけで、彼は人に紛れることができた。
死にたくない。
それ以上に、もし叶うのなら、叶えたい願いが彼にはあった。
叶うはずもないと諦めながら、どこかで諦めきれない自分がいた。
ある中年男と出会ったのは、それから少ししてからのことだった。
格好は、サラリーマンの典型としかいいようがなかった。
今時珍しい背広とネクタイが異様に似合っていたが、どこか何もかもが似合わない。
そんな印象を与える不思議な男だった。
平凡なサラリーマン姿は、瓦礫の街にあまりに不釣合いだったが、似合っていないこと自体が、男にとっては普通で当たり前のような感じさえした。
絵に描いたようなサラリーマン。
ただその人は、どこにいても誰といても似合わない、そんなことを思わせる男だった。
「きみには、何か願いことがないのかな?」
「……願い事……」
サラリーマンは唐突に彼の前に現れ、そう言った。
厚志に気配すら感じさせず現れた男に、何故か警戒心を抱く気にはなれなかった。
だからかもしれない、速水厚志としてでも、ラボを脱走してきた実験体としてでもなく、彼自身としてごく自然に接することができたのは。
「あると思う。でも叶わないからいいんだ。願ったって苦しくなるだけだし、何も望まない方が生き延びられる確率は高くなる。俺は死にたくない。望みはそれだけだ。少なくとも、無意味に処分されたり、幻獣に殺されるのは嫌だ。絶対に嫌だ」
「強く願えば必ず願いが叶うとは限らないけれど、最初の願いがなければ、それは永遠に叶わない。きみの願いは強く願えば必ず叶う。私が言うんだから本当だよ」
「願ったって叶わなかった。どんなに強く望んだって、願いが叶ったことなんて一度もありはしない。本当に、一度もなかったな」
もう顔も覚えていない父と母を、殺さないでと泣いてお願いした。
幻獣共生派として虫けらのように処分された両親。
(いたくしないで、ころさないで、なんでもするから、おねがい、おねがい、おねがい……)
ラボの非情で屈辱的な日常。
もう二度と誰にも願ったりはしない。望みは全て、自分で叶える。望みうる願いは全て叶えてみせる。ラボを逃げようと決心したときそう決めた。
(男の子はお嫁さんになれないんだよ……か)
幼い頃の記憶などほとんど憶えていないのに、幼馴染の女の子に言われたこんな言葉だけは覚えていた。
自分はたしか、大人になったら、およめさんかパン屋さんになりたいと言ったのだ。
他愛もない願いだが、それだって、叶うはずのない願いだった。
それでも、今でも叶うはずのない願いを胸に抱いている。
しかし…………。
「それは、昨日までのきみだね。今日のきみもそうかもしれない。でも、明日のきみは違うかもしれない」
「同じだよ。誰かに願いを叶えてもらおうとは思わない。欲しいものは自分で手に入れてみせる」
「願いを叶えるのは、いつだって自分自身だよ。きみは正しい。そして弱いんだね。でもその弱さは、誰にも真似できない強さに繋がり得る。教えてくれないか? 叶うはずのないきみの願いを」
「……俺の願い……それは――――――こと」
きみの願いに敬意を表してと、サラリーマンは青い石のついたペンダントと、二千五百円と戦車学校までのバス代を彼に渡した。
そして、現れたのと同じ唐突に、風のように去って行った。
短い時間しか話さなかった男のことを、これから厚志は幾度となく思い返すこととなる。
彼こそが、厚志の運命の使者だった。
厚志は男の目的を知らなかった。
彼の中で中年男は変なサラリーマンとして記憶され、それ以後彼らは再び出会うことはなかった。
サラリーマンの娘たちに、厚志はまだ出会っていなかった。
だが、彼は厚志に娘たちの未来をゆだね、娘たちに、厚志の未来を託したのだ。
男の心を動かしたのは、厚志のたったひとつの本当の願いだった。
叶うはずのない願いが、七つの世界最強の男を動かしたのだ。
それもまた、世界の選択である。
バスの中で、厚志はペンダントを強く握った。
集団の中で、どこまで速水厚志を演じきれるか、本性をかくしたまま、幻獣と戦わなくてはならない。
状況は不利なことばかりだった。
それでも、そこに厚志が望んだものがある。
ならば、手に入れるだけだ。
不安は、嘘のように消えていた。
(それは願いの石だよ。強く願えばきみの助けになってくれる。きみに祈りが必要なくても、それが君を守ってくれると、わたしが言っていたことを忘れないでくれよ。気休めこそが、最後の砦となることがある。嘘をまことに変えることを奇跡と呼ぶ。ただそれだけのことだよ)
サラリーマンは最後にそう言っていた。
誰にも願ったりはしないけれど、速水厚志は感謝という気持ちを男に対して感じた。
ラボを脱走した狂気の人形の冷たい心に、少しだけひびが入った瞬間だった。
バスに乗って、戦争で全てを失った老婦人にあい、おにぎりをもらった。
ただそれだけのことに、厚志は本気で感謝した。
まだ枯れた涙は戻らないけれど、なんだか泣きたい気分だった。
完全に速水厚志になりきれているからだと彼は考えたが、そんな理屈をつけなくとも、幼いときからラボの歪んだ環境で育った彼にとって、無償で彼に何かをしてくれたのは、あのサラリーマンと老婦人だけだったのだ。
自分の心がまだ完全に死んでしまったわけではないことを厚志はまだ知らない。
世界が彼が思うほどに残酷ではないことも、厚志はまだ理解してはいなかった。
嬉しいという感情をまだ理解していなかった彼は、速水厚志を演じるままに、ふたりに深く感謝した。
バスを降りると、ぼんやりとした鈍そうな女がおろおろと立っていた。
国語の教師だという女と女学校に間借りしているという戦車学校へと歩きながら、あらかじめ作成していた偽りの経歴を話した。
偽ることにまるで抵抗はなかったが、偽装がばれることだけには気をつけなくてはならないと厚志は思った。
正体がばれた時は、相手を殺すこともためらう理由はまったくなかったけれど、無用な殺しはしたくなかった。
驚いたことに、初めて会ったこの女教師を、厚志はなるべくなら殺したくないと思っていたのだ。
たった数時間で、厚志は以前のような獣ではなくなっていた。
「ここがあなたの教室よ。まだ生徒さんたちは全員揃ってませんけど。みなさんと仲良くしてくださいね」
まだ少しぎこちないぽややんとした笑みを厚志は浮かべた。
その不自然さを、女教師は緊張と受け取ったようで、与えた印象は悪くないように思えた。
あまり役に立つ人間だとは思えなかったが、今の厚志はこの教師を心の中でも嘲笑したりはしなかった。
ただ、積極的に交友を持とうと思わなかったことも事実だが。
教室の扉を引くと、数人の男女が教室をうろうろしていた。
何故かきまずい雰囲気が漂っていたが、厚志は気がつかないふりをした。
側にいた少年にまず自己紹介でもしようと、声をかけようとしたとき、一人の少女が振り返って厚志を見た。
そのまま躊躇せず、真っ直ぐ目を見つめたまま厚志の前に立つと、その少女は誇り高く、澄んだ声で、高らかに名乗りをあげた。
「舞だ。芝村をやっておる」
その時、厚志は幼い頃に見た純白の桜を思い浮かべた。
胸を張り、正面から厚志を見つめるポニーテールの少女の背に、力翼も出していないのに金色の翼が見えたような気がした。
それは一瞬の幻想に過ぎない。
思わず厚志は赤面した。
初めて会ったはずなのに、どこか少女は懐かしかった。
確かに知っているはずなのに思い出せない。
厚志は舞と名乗った少女の、迷いのない凛とした瞳と、その清冽な雰囲気に完全にのまれ、視線を外すことができなかった。
こうして、いずれ伝説となるふたりの若き戦士は邂逅した。
それが、悲劇の幕開けであることを、一部のもの以外、まだ誰も知らなかった。
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