芝村とは血族ではない。
意思と理念によって、人も人ならざるものも区別なく芝村は一族として受け入れる。
だから、芝村の子が必ずしも芝村となるわけではないのだが、舞は幼い頃から芝村の末姫と呼ばれていた。
舞より若い芝村がいないわけではなかったが、もともと芝村には女が少なく、数少ない女性は表に立つことはない。
芝村の女は死の娘と呼ばれ、主に諜報と暗殺に携わっている。
舞は亡き父を思った。
病弱であった舞を鍛え上げ、芝村として教育した養父こそ舞の世界のすべて。
父はもうこの世にはいないのだ。
芝村に涙はない。
常人を超えた力を与えられた理由を考え、舞は父の勇気を受け継ぐことを己に誓った。
芝村舞14歳。
Aの愛娘は、世界を変える決意をした。
生き残っているものは、ひとりとしていなかった。
壁にも床にも、研究員たちの血が飛び散っている。
全身を血に染めた少女が、高笑いをしながら死体を踏みつけていた。
ボロボロの患者服から、異常に大きな白い胸がのぞいている。伸び放題のダークブルーの髪のせいで、顔立ちもはっきりしない。誰のものとも知れぬ精液と血にまみれ、汚れて臭い野良犬のような少女。
青い髪は実験体の証である。
特に遺伝子段階で操作されたブルーヘクサと呼ばれる超能力実験体と異なり、後天的な実験体は人間以下のモノの印として、くすんだダークブルーの髪に変化させられる。
生まれつきのブルーヘクサは鮮やかな青い髪を持ち、同じ実験体とはいえ、生きている間はそれなりに大事に扱われる。少なくともモノ扱いはされない。
超能力実験に成功した例は、何故か女性体しか存在しないため、通常ブルーヘクサには女しかいない。
少女がどのような理由で後天的なブルーヘクサとされたのかは問題とならない。
人類が生き延びるためという大義名分の下、あらゆる非道が研究所ではまかり通っていた。
自分の名も、研究所に入る前の記憶も、少女はすべて忘れてしまった。
ただ異様なまでの生への執着心だけが、少女を動かしている。
研究所は不快な場所だった。まともな知識を持たない実験体の少女には、罪の意識など欠片も存在しない。
ずっと自由になりたかった。
そして、自分に不快な思いをさせた連中を殺してやる機会をずっと狙っていた。
念願がかなって、とても愉快だった。
少女のことを哀れみ助けてくれた女研究員もいたが、今頃後悔しているかもしれない。
その女だけは殺さずにいてやった。
少し考えが足りなかったかもしれないとも思ったが、彼女が自分の虜であることを少女は本能で知っていた。
研究室の奥の扉を開くと、ガラスの円柱の中に、同じ姿の幼女が何人も浮かんでいるのが見えた。
「ぼくと同じ?」
幼女たちの髪は澄んだ青だったが、少女はブルーヘクサの違いを知らなかったので、彼女たちも自分と同じ実験体とだけ理解した。
何故かわけのわからない恐怖を感じて、少女はその場を逃げ出した。
ケースの下に「の・みタイプ」と擦れた文字が刻んであるのだけが記憶に残った。
実験体46号と呼ばれた少女は、二度と戻ってくることはなかった。
芝村と一族に関わるものには、必ず家令と呼ばれる執事のようなものが存在する。
万能家令ミュンハウゼンの指導の元、家令候補たちはいずれ主人に仕える日まで、日夜厳しい修練にあけくれている。
彼らは芝村の家を取り仕切るものであり、主人を守り、時には愛人の役目も果たす。
家令がいなければ、家が成り立たない以上、その存在は正式な制度上の伴侶よりも強い絆をもたざるをえない。
舞にも当然家令が存在したが、数多いAの娘の中でも最も彼に愛されていた彼女は、己の家令と精神的に深い繋がりを持つにはいたらなかった。
芝村の女には珍しく、精神的にも肉体的も無垢であった舞に家令を伴侶とする意思はなかったし、また彼女の家令も家令らしからぬ男だった。
ある意味で、この主従はとてもよく似ていた。
屋敷を抜け出し、戦場に立つことを決めた時、舞は己の家令に何一つ告げなかった。
言葉などなくとも理解するだろうと舞は考えていた。
それは甘えではなく、単なる事実だ。
その程度には、舞も自分の執事を理解していた。
置いていくのは、追ってくることを知っているからだ。
頼っているわけではない。
誰よりも強かった父の存在を継ぐ以上、彼の人ゆえに家令として生きることを決めた男が、自分を追わないはずがない。
もし男が舞を追わないならば、それは自分が父の勇気を継ぐものとしてふさわしくないからだろう。
舞はもちろんやりとげるつもりだった。
勇気だけを武器に、舞は幼い少女を胸に抱きしめる。
「恐れるな。恐怖は判断を狂わせる。私はおまえを救うと決めた。私は嘘はいわん」
「うん……えっと、はい!」
舌足らずな声で、幼女は力強く答えた。
そこには無条件の信頼がこもっている。
芝村の実験施設から強奪した少女は、艶やかな栗色の髪をしていた。
それが少女の本来の髪の色だ。
研究員に操作させるまで、少女の髪は澄んだ青色をしていた。
すべての実験体を救うことは、今の舞には不可能だ。
だが不可能を可能にする生き方を選ぶため、舞は少女を道具ではなく人間にすることを決めた。
芝村は世界のための道具だ。
それは、強制ではなく、それぞれ己自身の選択である。
だから自分を含めて芝村が道具とされるのは、世界にとって当たり前だと舞は考えている。
その誇りと自負ゆえに、芝村以外の人間の犠牲を舞は許せない。
「ゆくぞ、ののみ!」
「うん! 舞ちゃん!」
少女は幸せそうに笑った。
実験体46号は、破壊された町をネズミのように慎重にさ迷っていた。
あからさまに異常な身体以外何も持っていなかった彼は、その身体を使ったり、あるいは殺人と強盗を繰り返して日々の糧を得ていた。
そう、シャツにジーンズとありふれた服を身に着けた彼は、どこまでも華奢で少女のようではあったが、もはや女には見えなかった。
奇形のように大きかった胸は微かに痕跡を残すのみで、しなやかそうな身体は、それでも成長期の少年の特徴を見せている。
めだつ青い髪は黒く染め、人に紛れてこそこそと逃げ隠れしていたが、そんな生活が長く続くはずもない。
街は死体で溢れていた。
幻獣が襲ってきたのだ。
並外れた生存本能と、同調実験で得た強運ゆえに生き延びた彼は、幻獣を最大の敵と考えた。
人間も自分を殺すかもしれないが、幻獣には彼の持つ武器が何一つ通用しない。
生来の卓越した頭脳も、望まずして得た特殊能力も、こうして逃げ回る以外に使用できないのでは、いつか必ず終わりが来る。
死にたくなかった。
研究所で、ただ生き延びるために何でもやった記憶がよみがえり、彼は震えた。
こんな場所で死ぬのなら、あそこで生きるためにやってきたことはなんだったのか。
世界の全てが滅んでも、自分だけは生き延びると、恐怖ではなく運命の理不尽さへの怒りのためにガタガタと震えながら、実験体46号は唇をかみしめた。
ふと視線を前に向けると、自分と同じ年頃の死体が目に映った。
死体を冒涜する幻獣らしい殺し方で、残酷さよりかえって歪んだユーモアさえ感じられる。
幻獣は殺すことを楽しんでいると、彼は直感した。
かつて研究員たちが彼を手ひどく玩んだように、幻獣にとって、人間はただのおもちゃなのだ。
死体自身に対しては何の感慨もなく、条件反射のように衣服をあさると、身分証明書を見つけた。
「速水厚志……徴兵されているのか」
期日が過ぎているということは脱走か。
死体の過去にも人格にも興味はなかったが、実験体46号はチャンスが転がり込んできたことを知った。
戦車兵として徴兵されているなら、生き延びる可能性が増えるかもしれない。
殺されない自信はあった。
死にたくないなら、幻獣を殺せる手段を手に入れなくてはならない。
自分を殺す可能性を持つものはすべて殺す。
身分証明の写真を引き剥がすと、実験体46号はその場を離れた。
この時から、速水厚志という名は彼のものとなる。
父母に与えられた名も忘れ、番号で呼ばれ続けた少年は、ようやく名前を手に入れた。
ただの借り物の名前が、この後の彼を生涯において縛ることとなる。
未だ物語りははじまらない。
これは誰も知らない少年と少女の語られざる真実。
ふたりは結局最後まで、互いのことを理解することがなかった。
そしてそれを知ることもなかった。
あまりにも違いすぎたふたりは、それでも惹かれあい愛し合った。
それは未だ未来の物語だ。
彼らの関係は嘘から始まり、嘘のまま終わった。
いや、終わりはしなかった。
互いの嘘は二人が死した後も、暴かれることはなかったのだから。
少年は知らなかった。少女の背負っていた宿命と真の決意を。
少女は知らなかった。少年の心の深淵の闇の深さと執着を。
絶望の海から希望は生まれいずる。
少年と少女の愛は、悲しいまでに純粋だった。
その無垢なる愛ゆえに、悲劇はどこまでも加速していく。
少年と少女は、まだ出会っていない。
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