【嫦娥】
夫から仙薬を盗み、天女となった女
月の別名でもあり、西王母に使えている
彼女への無礼な行為への罰として、天蓬元帥
は地上へと落とされた
「完訳西遊記より」
聞こえるはずのなかった小さな寝言は、突き刺さるように三蔵の耳に響いた。
突き刺さったのは、心のほうだったかもしれないが、どちらにせよ、その言葉を気にする理由は三蔵にはないはずだった。
十八禁指定生物にふさわしい悟浄の寝言と、何故か三蔵にしがみ付いて食べ物の名前を並べ挙げる悟空たちの騒音を貫いて、その言葉は三蔵に届いた。
「花楠」と、一言だけ。
一部屋にまとめられて、不本意ながら同室で寝ている悟空と悟浄の存在以上に、何故かその名は不愉快だった。
意図的に見える幾度かの事件の始末で、悟浄と八戒のふたりと行動することが増えた。
いつのまにか、特に事件がなくとも互いに行き来するようになっている。
親しくなったわけじゃないと、三蔵は思っている。
ただ、互いに何も語ったわけではなかったが、気がつけば腐れ縁に近い関係になってしまっていた。
知る必要など無いと思っていたから、二人の過去など書類上以外三蔵は知らないし、興味もない。
だが、「花楠」という自ら命を絶った八戒の愛した女の存在は、奇妙にいつまでも三蔵の心から消え去ってくれなくて、苛ついてくる。
紙に書かれたデータとしてなら、三蔵は八戒を──いや、悟能の過去を知っている。
だが、他人から聞いた情報など、紙くずほどの価値も無いと三蔵は思っている。
そして、三仏神の思惑に対する疑念も、八戒の存在を関係ないと切り捨てることができない理由のひとつだった。
三蔵があの事件を担当した理由は、八戒と出会うことにあったのだと、今では確信している。
悟浄もまたそうであるかもしれない。
運命など三蔵は信じない。
これは、人を無視した神の思惑だ。
神の意図など、考えても無駄かもしれないが、利用されるだけというのは業腹だった。
そっちがその気なら、こっちだって利用できるだけ利用してやる。
だからこそ、三蔵は長安で最高僧として存在しているのだ。
全ては復讐のために。
八戒に自分を重ねているとは思っていない。
他人の心などわかるはずがないのだから。
それでも、奇妙に八戒が側にいることが普通だったことが、三蔵の何かを刺激した。
自ら死を選んだ女などに関心はない。
多分、それが八戒の口から出ることが気に障るのだろう。
いつも何かを諦めたように笑っていた八戒も、最近では本当に笑顔を見せるようになっている。
それでも、最初に出会った悟能の激しさと狂気を、三蔵は忘れていない。
悟能がそれほどまでに愛した女。
時間が経つほどに、三蔵は花楠という女に呪縛されつつあった。
らしくない自分に腹を立てて、悟空を引き剥がすと、三蔵はマルボロソフトの赤に火をつけ窓の外を見上げた。
「外に出ませんか?」
「気配を殺すな。死にたいのか」
よりかかるように三蔵の後ろに立った八戒の心臓に向けて銃の狙いをつけた三蔵は、振り向きもせずに月を見上げた。
「綺麗な眉月ですね」
「弓月が好きなのか」
「月は何でも好きですよ。僕たちは半月だと思っていたんです。ずっと互いに欠けた半分を探していたから」
口をつぐんだまま、三蔵は部屋を出た。
後ろから、八戒の気配がついてくる。
「悟浄にも言いましたけど、僕は双子の姉だったから、彼女を愛したんです。双子でさえあれば誰でもよかったのかもしれません。僕は欠けた半月で、半身ならきっと僕を愛してくれると思っていたし、愛せると思っていた。愛されたかったんです。その確約が欲しかった。人は裏切るから」
「お前も、お前の女も愚かだな」
「そうでしょうね」
絶対に愛してくれる半身との愛など、ただのナルシズムと変わりはしないと三蔵は思った。
その点では、悟能と花楠はよく似ている。
妖怪の子供を孕んだ女を、自分なら愛さないと思ったから、あの女は死んだのだろう。
残されるものの気持ちなど考えもせずに。
そこまで考えて、師しか愛したことがない自分に花楠を責めることはできないのだと、今更ながらに気がついた。
「はじめて会った時、僕はあなたを満月のようだと思ったんです」
「太陽だとか、月だとか、勝手に決めるな」
「あなたを太陽に例えたのは悟空ですか? むしろあなたにとっての悟空こそが太陽に見えますけどね」
「あれはただの馬鹿ザルだ」
苦笑するように、八戒が笑った。
出会ってしばらくたった夜のことだった。
☆
それは、西への旅に出たばかりの頃。
じゃんけんの不公平さに、ようやく気がついた悟空の主張で、部屋割りは公平にくじ引きで決められた。
結果は悟空と悟浄にとっては、全く納得のいかないものだったが、自分から言い出した以上、悟空も三蔵の機嫌を損ねることは、さすがに嫌だったらしく、しぶしぶ諦めたようだ。
その日は雨だったから、八戒の本音としては、普段いつもいっしょの悟浄と離れるのは不安だった。
旅に出て、初めて悟浄と離れた夜だった。
三蔵にとっても、悟空以外の人間と雨の日にいっしょにいるのは、そう多くはないだろう。
三蔵に何があったのかを八戒は知らない。
だが、自分と同じく雨に起因する何かを抱えているのだと、それぐらいは気がついていた。
さっきから、煙草の数が増えるばかりで、深い沈黙が部屋を支配している。
言葉がどこから出たのか、自分でもわからなかったが、八戒は三蔵に声をかけてしまった。
「側に行ってもいいですか?」
答えはなかった。
三蔵のベッドに座って、やはり月に似ていると三蔵の横顔を見つめていると、互いの指が、偶然に触れ合った。
熱が、触れた先から全身に広がる。
互いの心臓の音が聞こえるような気さえした。
何故だろう。泣きたくなる。
唐突に思った。
彼女はもうどこにもいない。
とおに納得したはずのことが、何故今頭に浮かぶのか。
三蔵の手が震えているのがわかった。
もう、取り返しがつかないことを、きっとお互いに知っていた。
身代わりなんかじゃない。
それはきっと衝動。
月に似た華のような人を、今ここで手に入れたい。
「利用し合いませんか。今だけでも」
「無粋な言葉を吐くな。……バカが」
震えていた指が、八戒の指に絡まりつく。
ゆっくりと、ベッドに三蔵の体を横たえると、両腕で顔を隠した三蔵が小さく呟いた。
「雨のせいだ……」
「ええ、そういうことにしておきましょう」
「嫌な奴だ」
「黙って」
抱きしめると、鍛えられた均整の取れた体から、華の匂いがした。
月に似た人に出会って気付いたことがあるんだ
双子の姉だから、あなたを愛したのはホントのこと
誰でもよかったわけじゃないことを他人の温もりで知った
姉はあなたじゃなくちゃだめだったんだね
僕は月に焦がれている
愛しているよ花楠
あなたは僕を許してくれるだろうか
この苦しみを幸せだと感じる醜い僕を
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