『うっ……あっあっ……ぐっっうぅぅぅ―――ひぃっ……あああああああぁぁぁぁ!!!!!』
悲鳴とも、嗚咽ともつかない、呼吸困難を起こしたような、断続的に喉の奥から漏れる音を聞きながら、小さな身体を強く抱きしめた。
『啼くな。涙も流さずに、そんな辛そうに啼かないでくれ』
抱きしめた壊れそうなか細い少女に、彼は声を絞り出して伝えた。
こんな啼き方は、子供がするものではない。していいはずがない。
絶望と恐怖と不信に彩られた叫びは、彼の耳に、助けを呼ぶように聞こえた。
『泣きたいなら、思いっきり泣いてくれ。叫んでくれ。声を殺さないで、我慢しようとしないで、自分を殺そうとしないでくれ。俺が―――俺が全部受け止めるから。ずっといっしょにいるから。離したりしないから。独りにしないから!』
叫びは、彼女に届いただろうか。
「水曜日のテスト、お前、間に合いそうか?」
「聞くなよ。なぁ、誰かノート貸してくれよ。なんか奢るからさ」
「次、生物室だよね。白衣いるんだっけ」
「解剖実験にいらないわけないでしょ。すぐなくすんだから購買に買いにいこ。付き合うし」
急に目が覚めて、龍麻は一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
教室の喧騒を見て、ようやくそこが教室であることに気がつき、深くため息をついた。
「夢か」
教師の声も、終了の挨拶も、まったく聞こえなかった。
授業をまともに聞いたことはないが、真昼間にこんなに深く夢に入り込んだのは初めてだった。
(……実際には……あんなこと言っても、やってもやれなかったしな)
夢の中で、泣けない呻きをあげていたのは、義妹の麻麟だ。
あれは13年前に実際にあった記憶を改ざんした、龍麻の後悔だ。
あのとき龍麻にできたのは、泣けない義妹の変わりに、大声で泣いただけ。
抱きしめてやることも、言葉を伝えることもできなかった。
泣いて、泣いて、でもいっしょにいると約束した。
ずっといっしょにいようと。
(ゆるさねぇからな。本家のババァが。麻麟は本家になんかわたさねぇ! あのときみたいなことは絶対に、二度とさせない!!)
龍麻と麻麟は実の兄妹ではない。本当は従兄妹同士だ。
赤ん坊のうちに両親をなくした龍麻を、父方の伯父夫妻が引き取って育ててくれた。
もちろんそれは感謝しているが、麻麟のことを守りたいと、特別だと思うのは、自分たちにまつわる事情とは関係がなかった。
大事なのだ。麻麟がただ、とても大切だと思う。
緋勇という家の特殊性が、麻麟の心を追い詰めていることが、龍麻には苦々しかった。
宿命とか、因縁とか、自分たち自身には関係がないはずなのに逃れられないものが龍麻は大嫌いだった。
自分に与えられた宿命よりも、緋勇の名を背負って生き続けなければならない麻麟の義務の方がずっと過酷だと、龍麻は考えている。
幼い頃に、本家の当主である伯母に聞かせられた互いの運命を、否定し続けることを選んだのは、自分のためだけじゃない。
龍麻には、ずっと決めていることがあった。
それを証明することが、龍麻の願いであり、信念だ。
次の授業のことも忘れて、誓いを自分の中で再確認していると、教室の後ろの扉から、妙な気配を感じた。
といっても、龍麻には霊感の類は一切ない。
いや、正確に言うと、破格の「力」を持っている筈なのだが、ある種の封印で、その手の感覚が麻痺しているらしく、霊の姿や気配などはまったくわからない。
そのかわり、人間の敵意や、ある種の気配には敏感だった。
妹を守るために身に着けざるおえなかった特技だが、役立ってはいる。
龍麻が感じたのは、一番苦手で嫌な気配だった。
(なんじゃ、ありゃ)
教室の入り口に、明らかに怪しい男が立っていた。
制服を着ているのだから生徒だろうが、こんな奇態な男は見た記憶がない。
龍麻の疑問に答えるように、別の男子生徒の会話が耳に入った。
「あれ、A組に来た転校生だよな。莎草とか言ったっけ」
「おい。なんであいつうちの女ドモ見てんだよ」
「誰か、探してんのか」
「いやぁ……視線が嘗め回してるぞ。品定めっぽいっけど、あそこまであからさまなのはなぁ」
(っていうか、あの頭に誰かつっこめよ!)
東京からの転校生だとかいう男子生徒は、控えめに言っても奇妙な格好をしていた。
服は、改造したわけでもない普通の制服なのに、頭にバンダナというよりターバンのような原色の布を巻きつけている。
あからさまに怪しい格好だったが、その行動の不審さには誰もが眉をひそめていたが、見掛けについては誰も話題にしていない。
大きな声で言いたかった、その頭はなんだ。どこの民族衣装だと。
しかし、学校では人畜無害な平凡な生徒を装っている以上、目立つ行動は取れない。
それに、相手はおそらく龍麻がものすごく苦手な種類の人間に間違いない。その服装センス。あの焦点の合ってない厭らしい視線。すべてがそれをしめしている。
激しくかかわりあいになりたくなかった。
「ちょっと! あんたなんなのよ!」
C組いちの猛者と呼ばれる女闘犬石田が、果敢にも怪しげな転校生に向かっていったが、心のなかで龍麻は叫んだ。
(無茶だ石田! 相手は電波だぞ!)
電波―――電波系と呼ばれる人種の俗称である。
彼らは宇宙人と交信したり、神から啓示を受けたり、どっかの電波塔から指令を受けたりするらしい。
不本意ながら、龍麻にはなじみが深い連中だ。
だからこそ、そのやっかいさをよく知っていた。
「やめなよ。近づくのよそうよ」
地味ながらも賢明な石田の友人鵜沼が、親友を必死で止めているのに、龍麻はエールを送った。もちろん心の中で。
電波系とは、話さない、目を合わせない、近寄らないが基本である。
しかし石田は電波系の恐怖を判っていないらしく、真っ向から勝負に出ていた。
危険だと、龍麻にはわかった。
因縁をつけられた電波は、必ず逆恨みをする。
どんな報復に出るかわかったものじゃない。
ものすごく係わり合いになりたくないが、ここで女の子を見捨てたとなったら、麻麟に合わす顔がない。
さりげなくフォローに入ろうとしたところ、不気味な笑い声をあげて電波系変質者は去っていった。
「なんなのよ、あれ」
「もういいから、はやく行こうよ石田」
一身同体少女隊などと教師から呼ばれているふたりは、釈然としていない石田を小さな鵜沼が引きずる形で退場して行った。
「すっげーな、石田。さすが猛犬」
「まあ、いろいろ災難だったけど、何もなかったから、いいんじゃないのか。俺たちも行こうぜ」
(だから、あの変態に突っ込みを入れろよ。なにがさすが石田だ。まずいぞあいつ)
あの電波は、間違いなく石田に狙いをつけたはずだ。それもかなり危険な関心を持って。
龍麻自身は中庸を守っているため、電波系と関わる要因は少なくとも学校ではないのだが、種類を問わず彼らに目を付けられやすい妹がいるため、望んでもいないのにヤツラの考えが読めるようになってしまった。
だが石田に注意しても聞かないだろうし、電波の説明なんかしたら、こっちが怪しまれそうだ。
普通でいるというのは、結構気を使うものだった。
妹を溺愛している兄としては、来年この明日香学園に入学予定の麻麟に余計な注目を集めさせないためにも、中庸を保つ必要があった。
目立たず、平凡な高校生を目指すのは、普通とは言えない妹を少しでも奇異の目から守るためでもある。
はじめから色眼鏡で見られたのでは、麻麟は集団から弾かれる前に、その非凡さが悪意を持って語られるかもしれない。
いや、それは、幼いころに実際にあった事実だった。
だから、妹のためだけに、龍麻は気を使って平凡に徹している。
(あとで鵜沼に言っとくか。あいつの言葉なら、石田も耳を貸すぐらいするだろ)
この伝言は、結局伝えることはできなかった。
そのために起きる惨劇を、龍麻も誰もまだ知らない。
龍麻が嫌う、運命という名の最初の扉が、開こうとしていた。
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