龍麻がストーカー悪趣味オヤジと対面していた頃とほぼ同時刻、校舎裏では、これから龍麻に関わってくる、ある出来事が起こっていた。
「おまえら、赤い糸って信じるか?」
それが莎草の第一声だった。
わけもわからず莎草に呼び出されたC組の男子生徒たちは、なにを言われたのかわからず、顔を見合わせた。
女子のお呪いなどで聞く赤い糸の伝説は、知らないわけではないが、普通の男子高校生が興味を持つようなものではない。
「えっと、運命の人と繋がれてるっているっていう、糸のこと……かな」
「赤い糸の伝説って映画なかったけ?」
「いや、俺はしらんけど。だいたいその話自体知らないぞ」
「よく小指と小指が赤い糸で結ばれてる───とかいうだろ?
」
龍麻がいたなら、彼が電波系であること強く再認識し、ダッシュで逃げただろうが、電波の恐ろしさを知らない彼らは戸惑いながらも、話を聞き入って、しかも受け答えまでしてしまっていた。
あきらかな失策である。
しかし、普通の男子高校生に電波系の真の恐ろしさを理解しろというほうが酷かもしれない。
それでも、無知を理由に災難から逃れることは当然できない。
「でもなんで小指なんだ? おかしいだろ! 別に繋がってるなら親指だって人差し指だっていいじゃねーか。何でなんだよ!」
やはり唐突に、莎草は運命の赤い糸について熱く語りだした。
目が完全に逝っている。
さすがに危機感の薄い少年たちも、目の前の男が何か違うと気がついたらしく、全員が一歩下がった。
本当は全力疾走で逃げ出したいところだったが、なんだか逃げると追いかけられそうな気がして動けない。
一種の金縛り状態に、彼らは陥っていた。
「理由を教えてやろうか? 小指の血管はな、その人間の心臓に直結してると言われている。くくくくくッ―――つまり、その人間の魂にな―――俺にはその糸が見える―――すげーだろ!!」
生徒たちはもう泣きそうだった。
心の中で今までの大した事ない悪さの懺悔を始めている少年もいる。
自分たちはなにか悪いことをしただろうか。
誰か助けてくれ。
それが正直な気持ちだった。
「俺がすごいのはな、その糸が見えるだけじゃなく―――操れるってことなんだよ! こういうふうにな!」
莎草の体を、赤い光が包んだ。
途端に、彼らの身体が動かなくなる。
まるで糸で縛られたように。
「お前らには、ふたつの道がある……。俺に服従するか───、それとも、死か───だ」
校舎裏に、悲鳴があがった。
目の前の少年に、鳴滝は違和感を覚えていた。
配下のものの調べでは、平凡を絵に描いたような少年だという報告だったが、そんな少年が、鳴滝のような威圧感を持った男に突然声をかけられて怯えないはずがない。
だが、龍麻はあくまでも自然体だった。
目立つところは確かに見えない。
顔の半分まで隠す前髪で表情はわからないが、整ってはいても際立った美貌とも見えず、体格も普通―――いや、かなり細身の部類に入る。
どんな場所でも違和感なく溶け込むこと。それはかえって不自然だった。
常人ならば気がつかないだろうが、鳴滝は特殊な武道の継承者であり、また裏の顔を持った道場の館長も勤めている。
幾度となくくぐった修羅場の経験が鳴滝に教えてくれた。
この少年は、報告とは決定的に異なっていると。
彼はたしかに戸惑ってはいるようだった。
しかしそれは―――平凡な顔を学校の前で晒せないという逡巡のためだろう。
龍麻の本音を引き出すためにも、彼に伝えなければならないことのためにも、鳴滝は場所を人気の少ない公園に移すことにした。
幸いというか、おそらくは龍麻も安堵したのだろう。
無言で龍麻は同意した。
「突然、学校まで会いに行って、迷惑だったかもしれんが、どうしても、早く君に会う必要があってね。許してくれ───」
そう。こんなことさえなければ、鳴滝は龍麻に一生会うつもりはなかったのだ。
こんなことさえなければ――――――。
「許してくれなんて、僕は別にかまいません。それより、父の話ってなんですか?」
(やはりこの子は……いや、理由を探るべきではないか)
龍麻は両親のことを憶えていない筈だ、その最後の願いも。
だから、ここまで平凡に徹しようとする理由は鳴滝にはわからない。それでも、そこには何かの決意が見えた。
知っているのかもしれないと鳴滝は思った。
誰に教えられなくとも、己に課せられた宿命を、彼は自ら感じ取っているのではないか。
鳴滝にはわかる。
龍麻の何気ない動作のすべてが、厳しい鍛錬によるものだと。
その細い身体に、どれほどの力を秘めているのか、純粋に武道家としての興味が沸いてきたが、今はどうしても伝えなくてはならないことがあった。
口元だけで、少年は笑った。
通じているのだと、鳴滝には思えた。
「ありがとう。君の寛大な心に感謝するよ」
鳴滝の罪を、この少年は許してくれる。
根拠はなかったが、何故かそう思えて苦笑した。
己の罪が許される日がくるはずもないのに、ただひとりの親友であり半身の願いを叶えてやれない自分に、許される価値などないのだ。
「君は憶えていないだろうが、私たちが会うのはこれがはじめてではない―――もっとも、君がまだ言葉も話せないほど幼い頃のことだが……」
龍麻を、その父である弦麻の兄に預けたのは鳴滝だ。
鳴滝もまた、弦麻の仲間の一人から赤ん坊の龍麻を受け取った。
そう。半身であり、親友でありながら、鳴滝は弦麻の仲間ではなかった。
その運命を、彼は手に入れられなかった。
弦麻の仲間たちをどれほど嫉んだことか。
だからせめて、弦麻が残したという言葉を守りたかった。だが現実には、彼の願いを無にする事態を、自分はこの少年に告げねばならない。
「失礼だが───2、3質問させてくれ」
報告書には何度も目を通したが、記されている緋勇龍麻という少年と、目の前の彼はあまりにも違いすぎた。
その違いゆえに、かえって彼があのふたりの―――親友とその妻だった女性との息子に違いないと確信していたが、少年がどう答えるのか知りたかった。
あくまで平凡に徹するというのなら、己の経歴を隠すのか、それとも自分になら真実を明かしてくれるのか。
「君の出身地はどこかな」
「道東ですけど……血液型はA。誕生日は9月15日です」
(嘘ではないが、真実も言わない……か)
表向き龍麻の実家である伯父夫妻は、道東のN町で暮らしている。彼ら自身はそれこそ平凡なサラリーマン家庭だ。
だが、幼い頃の龍麻が育った場所は京都のはずだった。
言葉に京なまりはまったくなく、イントネーションにも特徴がない。これならどこの出身だといっても通るだろう。
京都にある緋勇本家の事情は、鳴滝の情報網をもってしても入り込めない部分が多く、おそらく龍麻が出身地をかくすのもそのためだろう。
それに、彼は病弱な従妹をとても大切にしていると報告にあった。
彼は自分ではなく、従妹を守ろうとしているのかもしれないなと鳴滝は思った。
本来伯父夫婦の実子である彼の従妹は、本家現総帥である弦麻たち兄弟の姉の実子として届けられている。
どういった事情なのか、龍麻自身は今の両親の実子となっていた。
そこに古い家系である緋勇家の事情が隠されているのだろう。
己よりも他人、特に身内と決めた相手を守ろうとする性質までが、失った親友を思い出させた。
「その瞳とその雰囲気───、君の両親である弦麻と迦代さんの面影がある……」
特に女顔をというわけではないが、顔立ち自体は弦麻の妻―――迦代によく似通っている。
だが、長い前髪の隙間から見える強い光を放ちながら、人を惹きつけずにはおかないその光は、弦麻から受け継いだものに間違いなかった。
(ああ―――だから、彼は瞳をかくしているのか)
どれほど彼の演技が自然だろうと、その強い力を持った瞳を見れば、彼がただものではないことぐらい、誰にでもわかる。
幼い顔立ちの中で、母親が持っていた特殊な瞳に似ながら、父と同じ強い意志の力を感じさせる光を浮かべたその視線を正面から見つめたなら、きっと目を離すことなどできなくなる。
そんな不思議な瞳だった。
「ずいぶんと……大きくなったな」
指を握ってきた小さな手を、鳴滝は昨日のように思い出せる。
弦麻が死を聞かされたときも、あまりに現実感がなく、悲しむことさえできなかった。ただ、寂寥感だけがあった。
もうこの胸の穴が塞がることはないのだと、それだけしかわからなかった。
龍麻を抱き上げながら茫然としていた鳴滝の指を、龍麻が強く握ったとき、初めて鳴滝は涙を流した。
後悔でも、己への憎しみでも、哀れみでもなく、ただ弦麻がいないことが悲しくて泣いた。
泣いて泣いて泣きつくして、今の鳴滝がいるのだ。
あの時も、あの幼子に許されているような気がした。
それがかってな思い込みだとしても、ある意味で、龍麻は鳴滝にとって親友の息子以上に恩人だった。
「……ずっと、私は、敢えて、君とは関わりをもたなかった。何故だかわかるかね?」
どんなに会いたかっただろう。
弦麻の忘れ形見の成長を、この目で見守りたかった。
だが、どうしてもそれはできなかった。
なぜなら―――――――――――――。
「それが───、弦麻の遺言だったからだ……」
中国奥地で起こった世界の命運をかけた戦いに、ついてくることを弦麻は許さなかった。
あの鷹揚な男が、鳴滝を欺いてまで、宿星で結ばれた仲間だという男たちと、身重の妻を連れて大陸へと旅立っていった。
あの時は、弦麻とその仲間を恨みさえした。
宿星とはなんなのか、本当の意味では、鳴滝にも未だにその意味はわからない。
運命ならば、弦麻とであったことが自分の運命だったのだと理解できる。
自分たちは半身以外の何者でもなかった。
それなのに、鳴滝は己の半分の死に立ち会うことすらできなかったのだ。
迦代は龍麻を生んですぐ身罷ったという。
詳しい事情を、とうとう鳴滝は聞くことができなかった。
弦麻の仲間と自分の間には、なにか明確な線があるようだった。
誰も何も語らなかった。鳴滝も尋ねることはなかった。
たとえ、自分が弦麻の半身だったとしても、それは鳴滝には理解さえできない世界のできごとなのだ。
『あんたが鳴滝冬悟かい?』
暗い目をした男は、それでも飄々とした態度で鳴滝に尋ねた。
それが、弦麻の最後の言葉を彼に伝え、龍麻を鳴滝に預けた剣鬼だった。
傷が癒えることなどないと思っていたが、時間はどんな苦しみさえも風化させていく。
生皮を引き剥がされるような痛みはもうなかった。
ただ、孤独だけが静かに降り積もっていくばかりだ。
己の半分は、あの日弦麻と共に死んだのだ。
それでも自分は生きている。
生き残ったものは、死んでいったものたちの無念や願いや希望を背負って生きねばならない。
それは煉獄に似ていると鳴滝は思う。
願うなら、龍麻には自分たちが歩んでしまった道を進まないで欲しいと、鳴滝は思う。
(だが弦麻……私たちの関係はなんだったのだろう―――私たちは半身だった―――それは違えようがない事実だ。だが、お前を亡くして思い知ったのは、私がお前のことをなにひとつ知らなかったという現実だけだ……)
「……あぁ───だが、ひとつだけ教えておこう。昔───、君が産まれるずっと前、君の父親と私は、表裏一体からなる古武道を習っていた。とても……、歴史が古いものでね。無手の技を極め、その継承者は、素手で岩をも砕いたという。弦麻が表の───陽の技を、私が裏の───陰の技を習っていた」
表裏の龍の技の起源は、神話の時代にまで遡るという。
詳しい伝承は鳴滝も知らない。
教わったのは技だけで、血の繋がりをもたない弟子に師匠は多くを語らなかった。
ただ、この技は、表裏の技が対を成してこそ完成されるのだと、そう聞いた。
自分が裏だと聞かされたとき、不満がなかったわけではない。
だが、弦麻を知ったとき、己の全てが今報われたのだと、理屈ではなく感じたのだ。
自分は彼のために生まれたのだと。
それが間違いだったとは今でも思わない。
それでも、自分たちはホンモノではなかったのだろう。
風祭と緋勇という表裏をなす家が面々と受け継ぐ古武道は、ただ技を習い修練を重ねるだけでは得られない何かがあった。
そしてそれを、鳴滝は継ぐことができなかったのだ。
後継者を諦めていた師匠が才能に目をつけて鳴滝に陰の技を教えたが、結局鳴滝では後継者にはなり得なかった。
その後師匠には双子の孫が生まれたそうだ。
おそらくは、その二人が、風祭の技を受け継いでいくのだろう。
古い血の因縁は、鳴滝には得ることができないもで、弦麻は緋勇家の陽の龍として、その技を正統に伝える男だった。
隠された緋勇の家について弦麻はほとんど語らなかったが、自分がホンモノの風祭の後継者だったのなら、弦麻が立った最後の戦場に、己も共に立てたのではないかという疑念を、未だに捨てることができない。
17年も前のことだ。
だが、龍麻がいる以上、因縁はどこまでも続いていく。
そのどこまでを、この少年は知っているのか。
「いきなり、こんな話をされても、信じられないかもしれないが」
鳴滝は、言葉をとめて龍麻を見つめた。
「そうでもない……という事か」
龍麻には、まったく動揺がなかった。
己に課せられた宿命を受け止め、そしてそれに打ち勝とうとする意思の力は、もしかすると弦麻以上なのかもしれない。
ならば、平凡を装い、特別な人間を従妹以外に作らないのは、周囲の人間をその宿命から守るためか。
「君は───フッ……まァいい」
問い詰めることはできなかった。
そんな資格は鳴滝にはない。
鳴滝は沈黙した。
「君は、弦麻が何故───…………いや」
言わなくとも、彼は多分わかっている。弦麻が息子に何を願ったのか。
(だからこその擬態―――皮肉だな弦麻……それでもお前たちの血をひく以上、彼は平凡な道を歩むことはできないようだ)
これも宿命というものなのか。
鳴滝は、龍麻に会った本来の理由を切り出した。
「最近、君の周りでなにか、奇妙なことがおこらなかったか」
「……はい。あったといえば、ありました」
(やはり、莎草か。あの少年は危険だ)
「やはりそうか……。私が君に会いに来たのは、忠告をするためだ。君が望むと望まないとに関わりなく、異変は日常から唐突に現実にあらわれる。そのことは、深い因縁───因果によって定められていることだ」
覆せない因縁のために、自分は弦麻を失った。
あんな思いを、目の前に少年にはさせたくなかった。
見守ることしかできない自分には、忠告ぐらいしかできはしない。
それも、少年の前では無用なことかもしれなかった。
なぜなら、その瞳には明らかな反感が浮かんでいたからだ。
彼は運命を知りながら、それを是としていない。
鳴滝にとっても、弦麻にとっても、運命とは受け入れるものだった。
だが、この少年にとっては違うのだろう。
それは若さゆえのことかもしれないが、少年にとって譲れない何かなのかもしれない。
「この街で、何かが起ころうとしている。こちらでも対処しようとはしているが……いずれにしても、くれぐれも気を抜かないことだ。最近君に近づいてきたものにも注意するんだ。いいね」
「わかりました。気をつけます」
言葉だけの同意だとすぐわかった。
この少年は、思った以上に難物だが、やはりまだ子供だ。
表情を消しても、その瞳に浮かぶ光までは消せていない。
ならば、己にできるだけのことをしよう。そう鳴滝は心の中で友に誓った。
「私の道場の地図だ。渡しておこう。近いうちに仕事で海外に出るが、しばらくはそこにいる。いつでも会いにきてくれ」
彼は必ずくるだろう。
弦麻の息子ならば。そしてあの瞳を持つ男なら――――――。
「―――また会おう」
龍麻の視線を、鳴滝は背中で感じていた。
自分が後継者にと選んだ少年の姿が何故か浮かんだ―――愚かなと自嘲する。
あたりまえではないか、自分の後継者である壬生紅葉は陰の龍なのだから。
「紅葉―――彼が、お前の半身だ」
願わくば、自分たちに訪れた別れが、二人の身に降りかからないことを。
鳴滝は、ただ祈った。
神でも仏でもなく、彼らの運命に。
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