(解剖、解剖。楽しみだな)
莎草のことはすっかり忘れて生物室に向かう龍麻の足取りは軽かった。基本が無表情なので、表には表れていないが、心の中ではステップを踏みそうな勢いで浮かれている。
龍麻は別に猟奇マニアではないが、今日の解剖実験は楽しみだった。
何故なら実験材料が、イカだからだ。
高校の実験で使う素材としては、あまり一般的ではないだろうが、イカの消化器官と血管をスケッチするのが今日の実験の内容だった。
食青と食紅を溶かした液を、それぞれの管に注入すると、見えにくいイカの生体構造がよくわかる。
本当に楽しみなのは、実験が終わったあとの、イカ焼きである。
色素でカラフルな斑になったイカが食欲を誘うわけもないが、龍麻はまったく気にしていなかった。
実験室で、ガスバーナーでイカを焼いて食うという、その状況がいいのだ。
なにがいいのかは、意見が分かれるところだが、同じ趣味の男子生徒と一部の女子生徒は案外多かった。
ビーカーでコーヒーを飲んだり、試験管でアイスキャンディーを作ったりするやからのことだ。龍麻もその分類に属している。
また、明日香学園は何故か、やたらとおいしい実験が多かった。単に教師の趣味なのだろうが、この前の実験は乳酸発酵の実験―――ヨーグルトの生成だった。
班の男子生徒の一人が、砂糖をありったけぶち込むという暴挙をしでかしたが、龍麻はちゃっかり他の班のヨーグルトをおいしくいただいたので満足だった。
化学室ももちろん大好きだ。
実験と名のつくものに弱い。それが食べられるならなお大歓迎だ。
龍麻のそんな趣味は、麻麟以外誰も知らないが。
無表情なまま、龍麻は上機嫌だった。
「あっ!」
あまりに実験を楽しみにしすぎて注意力散漫だったのか、荷物を抱えた女子と衝突してしまい、荷物が廊下にばら撒かれてしまった。
「ごめんね。大丈夫?」
それはこっちの台詞だった。
龍麻は女子と比べても細身だが、上背は170は越えているし、着やせして見えるので誰にも気がつかれないが、細いとはいえ龍麻はかなり鍛えられた肉体をしていた。
教材ごと女子生徒ひとりに体当たりされたぐらいでは、よろけることさえないのだ。
「ああ、なんでもないけど……そっちこそ怪我はないのか?」
「私は大丈夫。でも、良かった。怪我させてたらどうしようかと思っちゃった。荷物で前が全然見えなくて……」
(いくら俺が華奢でも、女の子にぶつかられて怪我するほどヤワじゃない……くっ! 自分で言ってダメージ受けたぜ。俺が細いのは俺のせいじゃないぞ)
171cmの身長に対して、体重の軽さと体格の細さが龍麻のコンプレックスだった。
麻麟の身長が152しかないから、ちょうどいいといえばいいのだが、雨後のタケノコのようにスクスク身長と身体の厚みが増していく学友たちを見ると、複雑な思いにかられるのだ。
ひそかにプロテインを愛飲していることは、最愛の義妹にだって内緒だ。
そんな苦悩も顔にはでず、一人で落ち込んでいると、チャイムがなった。
予鈴だ。
龍麻も生物室に急がないと遅刻だが、自分でどう思っていようと、麻麟以外の女性に興味もろくにないくせに、龍麻は女に弱かった。正確に言えば、弱い相手に弱いのだ。
そんな龍麻だ。この状態を放っておくのは、いくらなんでも気にかかって仕方がない。
こんな気分では実験が楽しめないではないか。
しかも、この女子ははじめから手伝ってもらおうという気がまるでないらしい。
困ったことに、そういう頑ななまでに潔い態度は、非常に龍麻の好みだった。女の好みではなく人間としてという意味だが。
「手伝うよ」
「ひとりで運べるから、大丈夫よ」
(強情だな。嫌いじゃないけどな。そういう可愛げのなさってのは、かえっていいカンジだ)
女の子の媚が嫌いというより、理解できない龍麻は、竹を割ったようにさっぱりしたこの女生徒に、好感度が急上昇中だった。
麻麟以外の女の顔などろくろく見もしない龍麻だが、よく見ればこの少女は華やかではないが、凛とした美少女だった。
甘やかな部分も持ちながら、さっぱりとしていて、強い意志が表情から感じられる。おそらく、同性異性、両方から好意的に見られるタイプで、頼られる姉御肌なのだろう。
「かせよ」
問答無用で荷物を持つと、驚いた女生徒がようやく安心したしたような表情を見せて、龍麻にお礼を言った。
「気にするな。ぶつかったのは、あんたのせいだけじゃないし」
注意力が散漫だったのは龍麻も同じだ。いや、気が緩んでいた自分のほうに非があったと龍麻は思っている。
普段なら避けられたはずだし、受け止めてやることだってできたはずだ。
記憶から抹消したいが、あの電波に調子を乱されたのかもしれない。
けっして、解剖で浮かれていたためではない―――と思う。
「よかった。ちょっとだけ本当は大変だったんだ。すごく助かっちゃう───ッ、授業忘れてた! 早く行かなきゃ!!」
(ついていけば、俺は遅刻だろうが、まあいいか)
龍麻の目的は、実験自体よりも、その後のイカ焼きだ。
遅れたところで、少しばかり叱責される程度のものだろう。
問題なしと龍麻は判断し、そのまま彼女の教室まで荷物を持っていくことにした。
教室への道すがら、互いに自己紹介を簡単に済ませた。
彼女の名は青葉さとみ。2-Aの生徒らしい。
はっきりとした、ものの言い方が気持ちよかった。
龍麻の中で、さとみへの好感度はどんどん高まっていく。さとみも龍麻を気に入ったらしく、笑顔で答えていた。
(違うクラスだけど仲良くしよう……か。かえってその方が面倒なく付き合えるかもな)
もちろん、さとみが女性としてタイプだとかいうことではないが、元々好感を持てる人種が少ない龍麻には、彼女は貴重な存在に思えたのだ。
本音を言えば、麻麟の先輩として仲良くしてもらえたらいいなという打算だったが、さとみを気に入ったことに違いはない。
さとみなら、大丈夫のような気がしたのだ。
たとえ、自分たち、特に麻麟の特殊さを知っても、驚くことはあっても否定はしないだろう。
あくまでもカンだが、そう思えた。
「でも不思議よね。あなたみたいに目立つ人が近くの教室にいたら、噂ぐらい立ちそうなものなのに、今まで同じ学校にいたことすら知らなかったわ」
「そうだな」
(ちょっと、まずったかな。いや、麻麟のこと頼むなら、俺のこともおいおいわかってもらわないとな)
入学当時から学校で目立つタイプだと言われたことは一度もない。
それだけ、龍麻は周囲に気を使っていた。
地方から、わざわざ札幌の高校に進学したのも、自分たち兄妹を誰も知らない場所に行きたかったからだ。
龍麻自身は、誰に何も言われても平気だが、麻麟には理解者がいて欲しかった。
平凡で普通な生活を、麻麟に与えてあげたい。
だから兄として余計な人の目を引かないように、気配を弱くして存在感を薄めていたのに、無意識にそのバリアーが、さとみの前では解けていたらしい。
不自然ではない程度に話を合わせたが、幸いさとみは龍麻の緊張には気がつかなかったらしく、楽しそうに会話を続けていた。
「ほんと、助かったわ。それじゃ、またね」
教室の前で分かれようとしたところに、誰かがさとみにぶつかってきた。
教材がまたばら撒かれる。
確かめるまでもなく、相手は、あの変態だった。
(何故、気がつくのが遅れるんだ? こんなのが近づいたら、普通わかるよな)
謝りもせず、気にした様子もなく立ち去ろうとした莎草を、男子生徒の声が呼び止めた。
(あっ、莫迦だこいつ)
電波に声をかけてはならない。
常識だろう。
さとみが、その男子生徒に、比嘉くんと呼びかけた。
知り合いらしい。というか、クラスの前なんだからクラスメートだろう。
第一印象では、苦手なタイプだと龍麻は思った。
熱血お節介。
絶対それに違いない。
お節介な人種が、龍麻は大変苦手だった。熱血は実は嫌いではないが、このふたつが組み合わさると、ものすごくうっとうしい性格になるからだ。
また、お節介なタイプは、人がその好意を退けようとすると、こっちを責めてくる。
案の定、比嘉はうんざりするほどお節介な熱血だった。
(だから、電波に意見を言うな。逆恨みはやつらの基本特性だぞ)
考えてみれば、この変態もさとみと同じクラスだった。
(哀れな)
自分がA組ではないことに、龍麻は深く感謝した。
(さて、どうするかな……)
電波にはかかわりたくない。
熱血お節介を助ける義理はない。
しかし、さとみは保護しておくべきだろう───妹の明るい学生生活のために。
なにより龍麻はもう、さとみを気に入っていた。
気丈なさとみは、自分は大丈夫だと主張しているが、電波は何をしでかすかわからない。
ここは自分が密かにさとみをこの場所から移動させるべきかと動こうとしたとき、無言のまま莎草がその場を去っていった。
「なんだ。あいつ……」
(なんだじゃねーだろ。これだから鈍感熱血お節介わよ!)
こっちを無視してさとみと二人の世界を作ろうとしていた比嘉を、さとみが龍麻に紹介した。
幼馴染だというわりに、何故苗字で呼んでいるのかと思ったが、思春期は何かと大変だよなと納得した。
どうも幼馴染というやつは、周りが勝手にカップルに仕立てる傾向がある。
比嘉がさとみに惚れているのは一目瞭然だが、さとみはそこまでの気はないのだろう。
(それより、初対面であだ名を聞くな。答えた俺も俺だが、よく知りもしない相手に下の名前で呼べなんて言えるもんだ)
龍麻のニックネームはひーちゃんである。
妹しか呼ばないあだ名だが、うかっり名乗ってしまった。
子供の頃、早熟だった妹は、逆に身体の成長はひどく遅れていて、たつまと上手く発音できずに苛立っていた。
おにいちゃんとは言いたくなかったらしい。
龍麻も、麻麟にそう呼ばれたいと思ったことはない。
たっちゃんと呼ばれている子供は他にもいたので、いつのまにか麻麟は龍麻をひーちゃんと呼ぶようになって今に到っている。
だが、初対面の人間に名乗るものじゃない。
自分はどうかしていたと龍麻は後になって考えた。
だから、熱血には弱いのだ。無意味に押しが強い。
「比嘉君とは腐れ縁ってやつね」
さとみにばっさり切られたが、比嘉は意味なく爽やかに笑った。
まあ、この場合、笑うしかないだろうが。
ふたりは、3ヶ月前に転校してきた莎草を本気で心配しているらしく、龍麻は目眩がした。
(いいひと過ぎる。勘弁してくれ。相手は電波だぞ)
差別である。
電波系は確かに迷惑だが、適切な治療を受ければ、社会復帰は十分可能だ。
それでも、龍麻は電波系が本当に嫌いだった。
さとみはまだ冷静なので許すが、電波に友達ができないのが湿っぽい話なのか、比嘉がそこで寂しげに笑う理由がわからない。
よろしくされたくはなかったが、仮にもさとみの幼馴染に失せろとも言えず、適当に同意してしまった。失敗したかもしれないと少しだけ後悔したが、すぐ忘れることにした。
別に他のクラスメート同様、当たり障りなく付き合っとけば問題ないだろうと、軽く挨拶して生物室に龍麻は急いだ。
イカのために。
放課後。
鵜沼も石田も見つけることはできなかったが、その時には龍麻はすっかり莎草のことを忘れていた。
クラスメートと別れた後、校門の前で龍麻は呼び止められた。
振り返った途端に、龍麻は激しい衝撃を受けて固まった。
本日二度目の衝撃である。
名前を確認されても、機械的に頷くぐらいしかできなかった。それほどインパクトがでかかった。
(わかめ頭───ありえねぇ! こんなごついヒゲのおっさんが、茶髪長髪わかめ頭! しかも葬式帰りみてーな黒スーツに赤いネクタイ! ありえねぇ……ありえねぇだろ!!)
鋭い眼光も、スーツの上からでもわかる鍛え抜かれた筋肉も、そのある意味卓越したセンスの前には霞んで見えた。
莎草を最初に見たとき以上のショックだ。
異様な風体だが、電波じゃないことはわかる。
だから余計に力が抜けそうになった。趣味の悪さも、ここまで重なると犯罪だと龍麻は思った。
電波とは別の意味で関わりたくない人種だ。
知り合いだと他人に思われたくない。すさまじく迷惑だ。
逃げよう。
そう思ったのがばれたのか、わかめ頭の親父は哀愁に満ちた声で呟いた。
「……捜したよ」
べらべらと龍麻の身上調査を語る親父に、龍麻は真剣に身の危険を感じた。
(電波の次はストーカーかよ。しっかし平凡平凡って繰り返すな。それは普通嫌味だぞ。いや、そう見せるために頑張ったんだから、ストーカーからそう見えるほど俺の努力は完璧なんだな。さすが俺)
「───それが───、昨日までの君だ」
(いや、いや、ちょっとまておっさん。人の堅実な人生にケチをつけるな。何しやがる気だ。俺は俺と麻麟の平和な日常のためなら、誰だって叩き潰すぜ)
内心の憤りを抑えて、わかめ頭を見つめると、聞いてもいないのに自己紹介をはじめた。
(鳴滝 冬吾? しらねぇな。いや、でもこのおっさん、よく見れば見覚えあるような気がするんだが───駄目だ、わかんねぇ)
「君の実の父親───緋勇弦麻の事で話がある」
わかめ頭は、龍麻にそう告げた。
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