『ねぇ、私達』
あまりに遠くなってしまった幸福な日々を、痛みとともに思い出す。
何度も、何度も、何度も。
繰り返す切ないまでに甘い思い出は、いつだって悪夢で終わる。
目の前には血の色しかない。
自分が殺した妖怪と人間の血。
目の前で命を絶った彼女の血。
(貴女が昔、言った言葉)
彼女を思い出すたびに、自分が血にまみれていることを同時に思い知らされる。
犯した罪に後悔はない。
自分が許される日が永遠にこないことを知っていても、何度でも同じことを繰り返すだろう。
苦しいのはただ、彼女がいないという現実だけだ。
『このままひとつに、なれたらいいね』
おそらく、そう思うのはふたりにとって自然だった。
ふたりはもともとひとつだったから。
分かれたものが、ひとつにかえろうとするのは、当たり前のことだったのだ。
ぴったりと重なり合った心と身体。
すべてがわかりあえた。
彼女のすべてを愛していた。
自分のすべてを愛されていることが確信できた。
(貴女とだからできたこと。貴女以外の誰ともできないことだった)
自分の中の狂気は、生まれついてのものだということを八戒は知っている。
狂おしいまでの激情を、穏やかな仮面でいつも覆っていても、深い闇の中の激しい炎は、けして消えることがない。
愛するもののすべてがほしい。
自分だけを見てほしいと、激しく願う。
相手のすべてを束縛し、心の中の欠片だって誰にも渡せない。
そんな愛し方しかできない人間だったことを、彼女を失ってはじめて知った。
あんなことがある前。二人の愛が罪であったとしても、互いに培った関係はおだやかで優しいものだった。
彼女を失うかもしれないと思ったときに知った激情。
愛することも、憎むことも、八戒の抱える狂気に限りなく近い衝動は、八戒自身にもどうにもならないものだ。
自分にも、まわりにも、ずっと嘘をつき続けていた。
それに気がつかなかったのは、満たされていたからだ。
彼女のすべてが自分のもので、自分のすべてが彼女のものだったから、穏やかな優しさは、どこにも嘘はなかった。
復讐というエゴを自己弁護する気はないが、やらずにはいられなかった。
彼女だけが大切だった。
彼女だけが、世界のすべてだった。
犯した罪に後悔はない。どこまでも後悔できない。
ただ、自分という存在の罪深さを、暗い淵を覗きこむように、何度も自嘲するだけだ。
常に仮面をかぶっている。
彼女を失って、生きることが無意味だと絶望しても、それでも生きようと思ったのは、かたくななまでに真実の自分を貫こうとする人を知ってしまったから。
花楠、と八戒は、もうどこにもいない双子の姉に呟く。
(悟淨を憎むのは、筋違いですよね)
血の気を失って、深い眠りについている三蔵を前に、八戒は暗く笑った。
三蔵が熱を出した。
泣き言を死んでも言わない彼らしく、ぎりぎりまで耐えた末に、いきなり倒れたのだ。
やせ我慢もここまでくると見事だが、まわりとしてはたまったものではない。
そして、三蔵が熱を出した理由を、八戒は知っていた。
正確には、予想したのだ。
こうなることを。
「なあ、三蔵大丈夫かなぁ」
痛みに耐えるような表情で尋ねる悟空に、八戒は明るく笑って答える。
「ただの疲労ですよ。三蔵は僕たちと違って人間ですから、疲れが溜まるときもあるんですよ」
納得がいかないように、悟空が八戒を見る。
「なんか、違う気すんだけど」
「それは、まあ、ああいう人ですから、納得いかないのもわかりますけど、痛いときに痛いと言わない人ですしね」
「だから! そういうんじゃないんだって!!」
叫んでから、悟空は小さくごめんと呟く。
「八戒が間違ってるって思わないけど、三蔵なんかヘンだ。ぜっってえ、おかしい」
あいかわらず、食べ物と三蔵のことに関しては、悟空はするどい。
「なんか、悟淨もヘンだし」
「悟淨がヘンなのは、いつものことでしょう」
八戒が、さりげに、ひどいことを言う。
「なんも言わないんだ。俺が何言っても、普段だったら馬鹿ザルって言うとこ、ずっとだまってんだ。おかしーじゃん!」
「いろいろあるんですよ。悟淨にも」
首まで隠した三蔵の肌を、悟空に見せるわけにはいかない。
年齢のわりに、子供地味た悟空にその意味がわかるかどうかは疑問だが、三蔵の肌にいくつも残る鬱血のあとを、聞かれてもごまかす自信は、さすがに八戒にもなかった。
「それより、ここにいても三蔵はよくなりませんよ。ご飯でも食べてらっしゃい。ここは僕が診てますから」
「いちゃだめなのか」
「そんなことありませんよ。でも、過労にはゆっくり休むことが一番なんです。まわりが静かなほうが早く治ると思います」
「それって、俺、すっげーうるせえから、どっか行ってろってこと?」
「そこまで言ってませんよ」
にっこり微笑む八戒の前で、しかられた子犬のように、悟空がしゅんとなる。
「大丈夫ですよ。すぐもとの三蔵に戻ります」
自分でも信じてない言葉が、すっと出てくる。
諦めきれないように何度も降りかえって、悟空は部屋を出ていった。
(なにをしたいんでしょうね、僕は)
三蔵の金髪に手をさしいれて、ぱらぱらと指の間からこぼしてみる。
そんなことをされても、目を覚まさないほど、三蔵の消耗は激しいのだろう。
いつもなら、他人が自分に触れることを許す三蔵ではない。
肉体的苦痛と疲労だけなら、ここまでひどい状態にはならないはずだ。
そういう意味では、三蔵は人間にしては異常なほど強い。
「あのひとの言葉の何が、そんなに痛かったんですか」
悟浄に会いにきて、三蔵に耳打ちしたあの女性の言葉の何が、これほど三蔵に衝撃を与えたのか。
声に出してみたが、もちろん答えを期待したわけではない。
ただ、知りたかった。
三蔵の心を動かすすべてが知りたい。
「入ってきたらどうです、悟淨」
「俺に気がついてて、それでも三蔵に触ったわけ?」
「気がついていたから……でしょうね」
「お前、何がしてえんだよ」
「さあ、よくわかりません。悟淨、あなたは、三蔵に何をしたんです?」
「知ってんだろ。あおったのは、お前じゃねえか」
「そうですね。悟淨、三蔵は本当は強い人じゃない……でも、この人自身が思っているほど弱くもないんです。あなたがした行為だけで、三蔵を本当に傷つけることは、できないでしょう」
悟淨が三蔵を犯すように仕向けたのは、八戒だ。
悟淨自身が気がついていなかった気持ちを、あおるような真似を何度もした。
結果がこれだ。
「よくわからないんです。僕にも、自分がなにをしたいのか」
悟淨は八戒と一度も目を合わそうとしない。
ただ、吐き捨てるように言葉をつなぐ。
「俺は、こいつが欲しいんだよ!」
「じゃあ、悟淨。僕が三蔵を渡さないと言ったら、あなたはどうする気なんです」
暗い淵に沈んでいく気がして、八戒は笑った。
2004/7/2 改稿
2008/12/19 改稿
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