「役にたたねぇ触覚なんて、とっとと抜いちまったらどうだ。赤ゴキブリ」
怒りを通りこして諦念の域に達したのか、先ほどまで息を荒げて罵倒の限りを尽くしていたのが嘘のように冷え切った表情で、三蔵が紫煙と共に低く呟いた。
足元には踏みつけられた悟空がジタバタと暴れているが、それも意に関せず、座った視線が悟浄を捉えて離さない。
逃げることは許さない。そんな視線だった。
だが─────────────────。
(逃げるのを許さないと決めたのは、自分自身に対してですか、三蔵)
ふっきれたとか、そんな簡単なものではないだろう。
八戒の矛盾がひとつも解決されていないように、三蔵の心も、おそらくは決まっていない。
三蔵が悟浄を無視できないことを、ずいぶん前から気がついていたけれど、ある意味では三蔵が甘えることができる相手が自分だけであることも、八戒は知っている。
それに満足することができたら、この痛みもなかっただろうか。
誰よりも自分が強欲であることを知っているから、三蔵への執着を認めることができなかった。なにより、名前のつけることのできない想いを自覚することは恐怖でさえあったから。
悟浄に酷なことをしてしまった後悔があった。
失えないのは、悟浄も同じだったのに。
選ぶことができなくて、逃げようとした臆病さのせいで、悟浄と三蔵を追いつめてしまった。
バランスが崩れる日がいずれ訪れる日を知りながら動かなかった八戒が自ら均衡を崩した理由は、嫉妬でも欲望でも―――愛でもなく、自分自身を貶めたかったからかもしれない。
さすがに小さくなって黙っている悟浄を笑って眺めながら、八戒は骨のずいまで自虐的な己の性質にあきれた。
「前向きになってたつもりだったんですけど」
所詮、つもりはつもりだったということか。
「はっかいぃぃぃぃぃぃぃ! 笑ってないで、助けてくれてもいいじゃんかぁぁぁぁぁ!!」
「おとなしくつぶれてろ」
情け容赦無くグリグリと背中を踏みにじる三蔵の冷えきった言葉に沈黙した悟空が、恨めしそうに悟浄を睨む。
「悪いの、悟浄なのに、なんで俺が三蔵に踏まれないといけないわけ?」
「俺のせいにすんな! 三蔵の上に落ちてきたのは、てめえだろうが!!」
根本原因を忘れて叫ぶ悟浄に、八戒は張り付き笑顔を向ける。
(ある意味、幸せな人ですよね。悟浄も)
悟空といい勝負だ。
「誰のせいでも、そんなこたぁ、もうどうでもいいんだよ」
もはやため息すらでない三蔵が、砂漠のように乾いた声で、深刻な事実を告げる。
「問題なのは、てめえが出口を知らねーってことだろうが」
どうやって、ここから脱出しろっていうんだ。
三蔵のきつい言葉に、ちょっと迷ったように、悟浄が小さく嘆く。
「それって、俺のせいなのかよ」
「「「当たり前だ(でしょう)」」」
3人の声が、きれいに重なった。
「賞品は見つけたんですけどねぇ」
「こんな役立たず誰がいるか。のしつけてあの女にくれてやるから、さっさと呼び出しやがれ」
「俺だって知らねーよ! だいたいくれてやるってなんだ、くれってやるってよ! いつ俺がお前の所有物になったんだよ! 俺はモノか? あっ?」
一瞬、沈黙が落ちる。
「馬鹿ですね」
八戒の嘆息まじりの声は、口の中で消えて、悟浄には届かなかったようだ。
「お前は、俺の───下僕だろ」
あからさまな嘲笑を浮かべて、三蔵の口元が歪む。
そんな表情がとてつもなく似合うのだから、始末が悪い。
月の顔だ───歪んだ月の美しく残酷な冷たい光。
「ああ、どうせそんなもんだろうよ!」
「貴様は、何を期待している」
「期待ぃ? そんなもん、はじめからしてねーよ! そんなもんしたって、無駄なんだろが」
(ホントに馬鹿な人ですね)
優しいとさえ言える表情を浮かべながら、八戒は悟浄を羨ましいと思う。
月の光は人を狂気に誘うそうだ。
悟浄は月に焦がれたりしない。
臆病で優しくて馬鹿なこの男は、自分がなり得ないものとして黄金の光を求めているのかもしれないが、それはあまりに自分を知らなすぎるというものだ。
人は自分に欠けたものを求めるというが、自分の中に始めから同調するものがないものに惹かれることもない。
悟浄は己を勘違いしている。
八戒の痛みが誰にもわからないように、悟浄が抱える傷も八戒にはわからない。
それでも、共に暮らした歳月が確かに伝えることがある。
狂気は、悟浄から最も遠い。
(悟浄───あなたの傷は───闇ではないんです)
悟浄は傷ついた子供だ。
泣き方を知らない子供が、今でも悟浄を苦しめるのだろう。
光は闇を理解しない。
三蔵の言葉に隠された意味に、悟浄が気がつくことはあり得ないのかもしれない。
そんな弱さが三蔵にあることを、夢にさえ思ったりしないのが、悟浄という男だ。
わかっていても、これはやはり馬鹿だなとしか思えなかった。
「あなたが出口を知らないことはわかりましたけど、鍵を握ってるのは、やはりあなたしかいないんですけどね。そろそろ経緯ぐらい教えてくれてもいいんじゃないですか」
「説明させてくれねぇの、おまえらじゃねーか」
「愚痴ぐらい、戻ったらいくらでも聞いてあげますから、なにがあったんですいったい」
普通に考えなくても、これは罠だろう。
それでも何故か彼女を疑う気にはなれなかった。
敵意が感じられなかったというだけではなく、何かの利害で動くような女性にはどうしても見えなかったからかもしれない。
もちろん、印象で決め付けるのは危険なことだが、彼女には彼女だけの理由があるように思えた。
挑発的な三蔵への態度も、敵愾心ではなく、どこか面白がっているようで。
「どこまで聞いてんのよ」
「駆け引きができる立場だと思うなよ」
「もちろん、全部話してもらえますよね?」
「全部ってなんだよ。俺にプライバシーはないのかっ───って……いってぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
「三蔵?」
「俺はまだ何もしてねぇ」
「なにしやがる、この馬鹿猿がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
叫ぶ悟浄の足元を見ると、三蔵に踏まれたままの悟空が悟浄の足に噛み付いている。
「えっと、悟空? 悟浄はあまり美味しそうに見えないけど、もしかして美味しいんですか?」
「いいから、放せぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「悟空?」
何を考えているのか、悟空は齧りついた足から離れない。
三蔵は、ほとんど無表情に悟空を見て、ほんの少し───笑った。
「はなせ───悟空」
不満そうに視線だけを三蔵に向けた悟空は、口を開いて一言呟いた。
「三蔵……痛い」
「痛いのは、俺だ!」
悟浄の叫びに耳を貸すものは、残念ながら誰もいなかった。
花楠───今でも、愛している。
ずっと、この身が朽ち果てるまで、永遠に愛してる。
これは誓いじゃない。
ただの事実。
あなたと出会って愛することを知った。
あなたを失って、憎悪と絶望を知った。
あんなに幸せだったのに、あなたへの愛に嘘はなかったはずなのに、思い返すと僕たちの愛は光に属するものじゃなかった。
それは禁忌のせいではなかった。
愛してはならない人だから、そうじゃなかった。
僕たちの愛は夜のもの。
愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる───そして、恨んでる───花楠。
あなたしか愛せない僕を、ひとり残して逝ってしまった臆病だったひと。
憎んだのは自分自身。
あなたを救えなかった自分という存在。
だけど、考えたくなかったことがある。
あなたを恨んでいることを、知りたくなかった。
三蔵への想いは、嘘なんだろうか──────。
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