「俺は強くなんかない」
強くなりたいと願ったのは、自分のためではなかった。
大切だったのは、あの方だけで、失いたくないと願ったのもあの方だけだった。 師であり、父であり、世界の全てだったひと。
守りたいと願うことで己を慰めていた弱さは、その人を失うことで三蔵を打ちのめした。
自分は強いと思っていた。
あの人を守れると、信じていたのに。
結局自分は、何一つわかっていないただの子供だったのだ。
それでも、己を憐れむことも蔑むこともできなかった。
『強くなりなさい。玄奘三蔵』
それが、師の最後の言葉だったから、それが壊れた三蔵の心の全てになってしまったことを、三蔵自身は自覚していない。
自分が壊れていることも、わからなかった。
ただ、奪われたものを取り返さなくてはならないと思っただけだ。
世界は消失してしまった。
己の無力さへの絶望で死ぬことはできなかった。
それは、弱いヤツのすることだ。
言えない叫びがあった。
心の中ですら、認めることができない叫び。
「強くなる」
今度こそ、本当に。
───それが、あなたの願いなら。
聡い子供は、失ったものが取り戻せないことを知っていたけれど、自分の弱さを否定することで心の底から消せない願いを封印した。
本当の望みはなんだったのか、封印することで、三蔵は自分の心を見失った。
そのことを、誰も知らない。
三蔵自身さえも。
ひとりでいる時は忘れていられた痛みを、愛情というなのエゴが抉り出して、鮮血を噴き出すような気さえする。
苦痛は恐怖ではなかった。
屈辱には、侮蔑で答えることができる。
だが、これはいったいなんだ?
愛と呼ぶものを、三蔵は知らない。
与えてくれたのは、光明三蔵だけだった。
生まれてすぐ川に流された子供を愛してくれただ一人の相手を、三蔵も慕っていた。
愛と呼べるものが彼にあるなら、光明への想いだけがただひとつの真実だったのかもしれない。
だがそれは、互いに与える愛だった。
父と子の深い情愛がそこにあった。
それ以外の愛情を三蔵は知らなかったし、興味を持ったこともなかったから、理解できない感情は、苛立ちとして消化できずにいつまでも燻り続ける。
理解できないものは、捨てるべきだ。
そのことに迷いはないはずだった。
(迷っているのか、俺は)
熱に浮かされながら、紅い髪と瞳の幻を見たような気がして、三蔵はきつく目を瞑る。
今は、何も見たくなかった。
(お前の真実はどこにある───悟淨)
「でも、弱くもないでしょ」
あの時、そこにいたのが八戒だったことを、三蔵は心の中で安堵していた。
思わず漏れた弱音を、悟空にも悟淨にも、聞かれたいとは思わない。
いや、誰が相手でも、弱音など吐ける三蔵ではなかったが、あのふたりに聞かれたなら、銃弾ぶちこんで始末するだろう。
自分の弱さを、三蔵は認めることができなかった。
それは、誰よりも自分が弱いことを知っているからだ。
弱いから、強くなりたいと願う。
強く。強く。気が狂うほどに。
失ったものは同じじゃない。
痛みも、苦しみも、分かり合うことなどできはしないことを知っていても、無力だった己への憎悪と絶望を、強さへの渇望を、八戒もまた知っている。
それが安堵を誘うのか、そう思うと自分自身に吐き気がする。
八戒の側は落ち付く。
だからこそ、三蔵は八戒が苦手だった。
その時はじめて、自分が八戒の存在を自分の中に入れていることに気がついて、三蔵は眉をひそめた。
八戒は、守らなくてもいいものだった。
悟空も悟淨も、三蔵が守る必要のないものたちだ。
三蔵にとって、八戒は何時の間にか安心できる場所になってしまっていた。
どこも似ていないのに、いつか得ていた安らぎに似ている気がして、少しだけ三蔵は痛みを覚え、そして忘れた。
八戒の言葉が、どんなに心を温めても、それを認めることはできなかったから、忘れることを三蔵は選んでいたし、忘れようとしたことさえ忘れてしまった。
もし、三蔵が自分の弱さを受け入れることができていたなら、答えは違っていたのかもしれないが、そんな仮定は過去が変えられない以上無意味な繰言だ。
何が嘘で、何が真実だったのか、それは誰にもわからない。
切っ掛けは、オレンジだった。
溜まってるんだかなんだか知らないが、フラストレーションを爆発させた悟淨が宿を飛び出して、残された3人はなんとなく適当に時間を過ごしていた。
その空白の時間は、ぽっかりと空いた穴のようなもので、静かすぎてかえって落ち付かない気分になる。
悟空が部屋を出た理由は覚えていない。
ふたりっきりの空間は、気分の悪いものではなかった。
少なくとも、八戒は三蔵を苛立たせる行動を意図的でなければ滅多にしない。
会話はなかった。
なんの前触れも、そこには存在していなかった。
「三蔵、オレンジ食べませんか?」
「猿にやれ。俺はいらん」
「そう言わずに。もちろん悟空の分もありますよ。でも、すごく美味しそうなんで、あなたにも食べて欲しかったんです」
いつ手に入れたのか、八戒は紙袋にいっぱいのオレンジを抱えて微笑んだ。
「どこに隠し持ってた。サルがよく気がつかなかったな」
「僕も、日々努力してるんです。せっかくですから。ね?」
いったい、なんの努力だ。
悟淨の分はなどと無駄なことは最初から聞かない。
八戒が別によけておかないはずはない。
もちろん心配してやる義理もなかった。
「今剥きますから、少し待ってください」
何がそんなに嬉しいのか、弾んだ声で八戒は紙袋からオレンジをひとつ取り出した。
「あなたが剥いてみますか?」
鮮やかなオレンジ色───鮮烈な過去の記憶。
脳裏に一面の青空が広がった。
飛んで行く、橙色の紙飛行機。
だたの連想だった。
オレンジの色に過去の記憶が触発されただけだ。
だたそれだけのことなのに、三蔵は動くことがきできなくなった。
胸にぶつかったオレンジが、軽く音を立てて転がっていく。
あのとき自分は、どんな顔をしていたのだろう。
わからない。
その後の記憶は曖昧で、八戒の言葉もその後の行動も、霞みがかかったようにおぼろげだった。
覚えているのは、間近で見た泣きそうな八戒の笑顔と、髪に触れる指の感触だけ。
わからない。
わからない。
わからない。
なぜ、そんなことを許したのか。
何かがあったわけじゃない。
目に見える何も、変化はなかった。
落ちていたオレンジを拾って、紙袋から新しいオレンジを取り出した八戒は、張り付いた笑顔のままで備え付けのテーブルにオレンジを置いた。
「あなた結構ビタミン不足なんですから、これはちゃんと食べてくださいね」
「余計なお世話は、河童だけにしとけ」
何かが変わってしまった。
それだけはわかるのに、それが何かわからない。
「悟淨の調子が治ってればいいですけど、また悟空と騒がれても迷惑ですし、今日は悟空と相部屋になりますから、困った人の相手をお願いしますね」
「頭に風穴が空いてないことを祈るんだな」
「オレンジ……わたしといてあげてください」
「置いときゃ、勝手に食うだろう。俺が知るか」
心底から低い声で吐き捨てると、何を考えているのかわからない笑顔が返ってきた。
「知ってるんでしょう」
閉まった扉の前で、三蔵は苛立ちを抑えられずにテーブルを蹴り飛ばした。
何を……何を知っているというのか。
八戒が思わせぶりなのはいつものことだ。
だが、あの態度はいったいなんだというのか。
いや、そんなことは問題じゃなく、自分がどうなってしまったのかがわからないことに、三蔵は苛立っていた。
転がっていくオレンジ色が目に痛い。
「違う。そんなんじゃねぇ」
絶対に違う。
何が違うのかもわからなかったが、心の中で何度も違うと繰り返した。
これは、違うのだ。
八戒は何かを思い違いしている。
では、何が違うのか───答えが出ない。
だから三蔵は、自分の心から目を逸らした。
答えを……出したくもなかった。
悟淨が戻ってきたのは、思ったよりも早い時間だった。
「女の匂いがしねぇな」
単に意外だったから聞いた。
言葉には、なんの意味も無かった。
正直な話、悟淨の相手は面倒臭い。
悟空と同じぐらいにやかましいくせに、イヤになるぐらい繊細で臆病だ。
禁忌の色から連想する炎のような鮮やかな赤に反して、悟淨はいつも何かに怯え、そして諦めている。
手に入らないのなら、最初から望まない。
それが悟淨のスタンスであることに、バカな男だと思いながらも、その視線に苛立つことが多い。
悟淨の目に映る玄奘三蔵は、たぶんきっと悟空にとっての太陽と同じぐらい、わかりやすいイメージで固められていることだろう。
八戒の前では、安心できるくせに不安定な揺れを抑えられないが、悟淨や悟空の前では、怒髪天をつきながらも、強い自分でいることができる。
わずらわしい。
とてつもなくうっとうしいやつらだが、三蔵が三蔵であるために、それは必要なことなのかもしれなかった。
「あら、気にしてくれんの。めずらしいじゃん」
「させてたら、部屋から追い出そうと思ってたんでな」
他愛もない嘘だった。
八戒への未消化の思いを、悟淨との軽口で忘れてしまおうとしただけだ。
「三蔵様は女嫌いなんだ」
悟淨のセリフに、三蔵は眉をひそめた。
下品な言動はエロ河童の得意技だ。
だが、視線を合わそうとしない悟淨の態度はあきらかにおかしい。
最近悟淨が苛立っていることには気がついていたが、他人の心情を思いやれるほど余裕はないし、心配する義理もない。
そう思って放っておいた。
八戒がフォローするだろうと考えていたせいもある。
「俺の職業を忘れているらしいな」
本当は戒律などどうでもよかったが、一応建前を言ってみた。
女は好きでも嫌いでもない。
三蔵にとって、単に異質な生き物というだけのことだ。
母親を知らず、幼少期を男だけの寺で過ごした三蔵には女性への憧憬が存在しない。
愛情なら、光明三蔵がおしみなく与えてくれた。
他を求める必要など、三蔵にはなかった。
性に関しては、面白がった朱泱に一方的に知識だけは教え込まれたが、ついぞ興味を持つことはなかった。
「タバコも酒もやるくせにね」
下を向いたまま、イジケタ口調でつっかかる悟淨の相手をするのもわずらわしくなって、三蔵は窓に寄りかかってタバコを取り出した。
「それも俺の勝手だ。言いたい奴にはいわせとくしな」
あのひともよく、隠れてタバコを吸っていたと、窓から見える月を見ながら三蔵は遠い記憶を探った。。
光明三蔵が吸っていたのは煙管だったけれど。
朱泱と酒盛りをしていたことも知っていた。
マネをしているつもりはないが、それでもやはり、あの方の影を追っているのかと思うと、ほんの僅かに口元が歪んだ。
笑いたかったのか、泣きたかったのか、悟淨がいなければ───そう思いながら、そうじゃなかったことを少しだけ感謝する。
弱い自分を認めたくなかった。
それこそが弱さだとしても、今はまだ。
自分の内側に潜りこんでしまっていた三蔵は、悟淨が近づくのに気がつかなかった。
「湧いてんのか、貴様」
女にするように三蔵を抱きしめた悟淨の目は、相変わらず逸らされている。
視線を合わさず、それでも抱きしめる腕に力を込めて、悟淨が耳元で囁いた。
「あんたが欲しいっていったらどうする」
瞬間、血液が沸騰したような気がした。
怒りが殺意に高まるのは簡単で、そのくせ血の気が引けたように指先に力が入らない。
一番聞きたくない言葉を聞いた。
それが何故かはわからない。
嫌悪ではない。
憎しみにさえ近い感情を、三蔵は悟淨に抱いた。
「その場で死ね」
銃口を悟淨の眉間に突きつけると、泣きそうな表情で悟淨が顔をあげた。
「言うと思った」
泣き笑いの顔で近づいてくる悟淨を、三蔵は他人事のように見ていた。
避けることも、引き金を引くこともできず、ただ固まっていると、窒息しそうなほど強く口付けられた。
『気がついてるんでしょう』
何故か八戒の言葉が浮かんで、反射的に絡んでくる悟淨の舌に思いきり噛みつく。
血の味が気持ち悪かった。
吐きそうになる。
「悟淨貴様!」
欲望を押しつけられのは、はじめてじゃなかった。
師を失ったあの日から、三蔵を守ったのは自分自身の力だけ。
頼れるものがない外の世界で、三蔵のような際立った美貌の少年が無事でいられるはずもない。
下司は踏み潰す。
そうやって生きてきたのだ。
今回も、そうするべきだった。
引き金を引くだけだ。
裏切られた。
そんなことを思うこと自体バカバカしい。
信じたことなどなかったはずだ。
ならばなぜ、こんなにも悔しいのだろう。
どうして、引き金を引けないのか。
「撃たねーのか、やっぱ」
悟淨の言葉に、頭に血が上る。
見透かされているのかと思うと、この場で舌を噛みきりたいぐらいに屈辱を覚えた。
(俺の弱さを嘲笑ってやがんのか、くそガッパの分際で)
女好きを標榜する悟淨が、自分に血迷うとも思えない。
男が男に欲情する時、それは征服欲以外にはあり得ないのだ。
やかましいから殺そうと、思ったことは何度もあった。
自分に殺されるほど弱くないと、そう知っていたから思えることだったのだろう。
だが今は、本気で悟淨を殺したいと、心底から思う。
「俺にもわかんねーんだ。ホントってやつがさ。だから三蔵が、見ぬいてくれよ」
(勝手なことを)
何かを期待していたのか、自分が?
バカバカしい。
見誤っていた、自分が愚かだっただけだ。
「覚悟はできてるんだろうな」
組み伏せたいというのなら好きにするがいい。
三蔵は心の中で悟淨を嘲笑った。
こんなことで、自分を征服できると思っているなら、やってみるといいのだ。
その思い違いを、骨の髄までわからせてやる。
(俺は絶対に、裏切った相手を許さない)
手酷くベッドに抑えこむ悟淨の腕にも、三蔵は抵抗しなかった。
どうでもいいという投げやりな気持ちと、気が狂いそうな嵐が三蔵を翻弄している。
「八戒……」
囁きは、悟淨には届かなかっただろう。
今、なぜその名を呼ぶのか、三蔵にもわからない。
わからないけれど、呪文のように、心の中でその名前を繰り返す。
悟淨が何かをしきりに言っているが、まったく耳に入らない。
はじめて触れる他人の手は、気色が悪いばかりで、全身に震えが走る。
屈辱にかみ締められた唇からは血が流れたが、その痛みさえどこか遠かった。
「三蔵が感じてる声、聞かせてよ」
馬鹿かこの男は。
知っていたが、犯している相手に向かって恋人のような言葉をよく言える。
「黙れ、下司」
これ以上気色の悪い言葉を聞きたくなくて搾り出した声の隙間から、喘ぎのような吐息が漏れ、自分の声にぞっとした。
「綺麗だよな。いつもより、もっと綺麗だぜ」
「うるせえ!」
『実は僕も駄目なんです』
あの時の八戒の笑顔。
『───雨の日は』
泣きたい。泣きたい。
もう泣き方を忘れた。
今何故、あの時の八戒の言葉を、表情を思い出すのか。
いきなり突き上げられた衝撃は、痛みよりも熱に近かった。
モノのように扱われ、揺すり上げられる。
心の中が、擦り切れて行くような気がした。
(吐きそうだ)
女相手なら、きっと奴が言うところの紳士的な愛し方とやらをするのだろうが、これはただの暴力に過ぎない。
ならば、やり過ごすのは簡単だ。
人形になってしまえばいい。
(もう、どうでもいい)
意識を失う寸前、床に転がったままのオレンジが目に映った。
誰もが、何かを間違えていた。
掛け違えたボタンをもとに戻せるのかどうか、それはまだわからない。
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旧7777キリ番ゲット藤縞 志保さまへ捧げる作品です。
悟浄と八戒が三蔵を取り合うというリクでしたが、「告白」「嘘」と同軸で三蔵様視点の上連載にしてしまいました。
申し訳ありません!
「嘘」を読まれた方にはあらすじは分かってしまいますが、三蔵視点だとまったく異なった事件となっております。
こちらも気長にお待ちください。
2009年には完結させたいと思っております。
[1回]
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