ほとんど無意識に出てしまった三蔵の言葉は、鉛の弾以上に悟浄の心臓を無残に打ち抜いたらしい。
三蔵の嫌いな、泣き出しそうなことを隠そうとする子供の目で一瞬三蔵を見ると、悟浄は黙って部屋を出た。
「ちっ!」
なぜこんな目に合わされた自分の方が、相手にひどいことをしてしまった気になるのか。これも全部あのゴキブリのせいだ。
悟浄の気持ちとやらに答える余地は最初からなかった。
昨日の夜は、誰もがおかしかった。
三蔵に限って言えば、悟浄の行為は、絶好のいい訳だったのかもしれない。
誰に対するものではなく、自分自身へのごまかしだ。
言ってしまった言葉は取り返しがつかない。悟浄にさっき言った言葉は今の三蔵にとっての真実だ。
だがそれは、事実とも異なっていた。
『――――――八戒以外の人間に触られると虫唾が走る』
『ああ―――やっぱ……そっか……』
それっきり、会話を交わすことはなかった。
立ち去る悟浄にかける言葉などなかったし、その必要もなかったはずだ。
それでも、悟浄の背中を見るのは、錐で胸を衝かれたような鋭い痛みを三蔵に与えた。
情が移るとは、こういうことをいうのかもしれない。思った途端に吐き気がこみ上げた。
なかったことにも、忘れることも、やはりするつもりはなかった。
どんな屈辱も痛みも、忘れず抱えて生きていく。
それが三蔵が決めたい生き方だ。
本当なら、こんな目に合わされたなら、百倍返しが基本だが、認めるつもりはなくても、やはりあいつらは他の連中とは違うのだ。
許せなくても、離れようとは思わない。
離れられないわけではないと、三蔵は思っているけれど。
きっと、離れられない関係というのは、自分と悟空のことをいうのだろうと思う。
悟空に触られるのがうっとうしいが平気なのは、相手が子供なせいではなく、自分が拾ってきた動物だからだ。
師匠がかつて言ったように、どんなに頭にきても、呼ぶ声が聞こえるし、三蔵の声も悟空には届く。そんな確信があった。
それは、師匠と自分に確かにあった絆とは違うが、限りなくそれに近いものだと思う。
だからこそ不思議だった。何故八戒は大丈夫なのかと。
あの夜、転がるオレンジを見たとき、どうしようもない気分に襲われた。
自分は――――――――――――。
(橙色の紙飛行機。青い……空)
ばらばらのピースが、三蔵の中で組み合わさり、目眩の中自分の愚かさに怒りがさえこみ上げてくる。
「違う…………」
違うと思っていた。あのひとと八戒が似ていると何度感じても、身代わりにしたことなどないと、そんなこと考えたこともなかった。考えることを禁じていた。
「だが、やはりそれは違うだろう八戒」
考えたくなかったから無理に記憶を捻じ曲げたことは確かだ。だが、八戒が側にいて楽だったのが本当は無意識のうちに師匠の面影を追っていたからかもしれなくても、いっしょにいたいと思ったのは、過去の思い出じゃなく、生きている今の八戒なのに。
師匠を忘れることなどあるはずがない。
八戒だって、死んだ女を忘れはしない。
お互いそれはわかっているはずだ。
それでも、それでも惹かれたのは真実じゃないのか。
似たトラウマを抱えていることや、どこかが通じ合う懐かしいなにか。そして、三蔵にとっては大切な師匠を思い出させる仕草や雰囲気が、互いを近づけさせたのは、事実だろうけれど、それでも惹かれたことは嘘じゃなかった。
どんなに師匠を思い出させても、あのひとの代わりはどこにもいない。いるはずがない。それは、誰にとっても同じことだろう。
だから、八戒が欲しいと思うこの執着にも似た願いは、身代わりなどではなく、八戒自身への三蔵の真実だ。
八戒と抱き合いたいわけじゃない。
そんな欲望はない。
いっしょにいると、落ち着く。
本当に、そんな単純なことだけだった。
三蔵にとっては、それこそが八戒でなくてはならない理由だったのだ。
だから、悟浄がきっと考えたことは間違っている。
悟浄の真実は、悟浄の中にしかない。
これから、自分たちがどうなるのか、三蔵にはわからなかった。
身体を落ち着けてから下に下りると、悟浄に話しかけていた女と目が合った。
面白がっている視線は、だが、どこか冷静な残酷さと、不思議な慈愛がこもっていた。
(……なんだ。あれは)
ただの女ではない。あきらかに法力が感じられた。神仏の加護が力として見える。
それも、三蔵だったから感じられたが、その女の気配の調和の仕方はあまり見事すぎて、誰も女の特異性に気がついていない。
それこそが、女の実力の高さを伝えている。
女の容姿については、三蔵にはほとんど関心はなかった。
周囲の騒ぎ具合や、だらしない悟浄の顔からも、相手が相当の美女であることは理解できたが、異性としての女を、三蔵はまったく関心がもてない。
女が自分に興味があることと、見かけ以上にただものではないことだけはわかった。
なぜなら、悟浄と話しながら、その視線は三蔵に向けられ、その法力を彼にだけ誇示しているからだ。
「なんのつもりだ、あれは」
「悟浄が昨日ナンパした女性らしいですけどね」
気配もなく後ろから声をかけられて、三蔵は内心驚いたが、それ以上に何もなかったような八戒の態度が不審だった。
「……八戒……お前は、何がしたかったんだ」
「さあ、どうなんでしょうね。すいません三蔵。僕にも本当にわからないんです――――――」
自分が何をしたいのか――――――口の中に消えた言葉は、そう聞こえた。
「仕方ねぇ……な」
八戒が求めるいるものが自分と異なるのなら、やはり三蔵は応えられない。
身体を欲しがるなら、八戒になら多分許せる。
しかし、それは致命的な間違いだ。
悟浄相手のようにはいかないだろう。自分たちはきっと、相手を束縛して、自分に縛り付けてしまう。離すことができない相手になるとはじめからわかっていて、触れるわけにはいかなかった。
そして多分、自分を抱いてしまったら、八戒はもう戻ることができない。「八戒」を失いたくなかった。いつか失くすものならいらないと、幼い日の誓いにこだわる必要はもうないだろう。
自分は、多分、これからも、あがき間違えながら、それでもあの人が望んだままに生きていける。
失えないのだ。もう3人の誰も失うことはできない。
それぞれに、失えない理由は違うが、もう奴らから離れること自体が想像できなかった。
「三蔵?」
三蔵の諦めたような呟きに、八戒は暗い表情を見せたが、一瞬でいつもの笑顔に戻った。
悟浄を相手にしたのとは違う痛みが三蔵を襲った。
悟浄のときは、鋭い痛みだったが、今は締め付けられるように苦しい。
(そうやって嘘をつき続けるのか―――八戒でいるために……)
三蔵が欲しいのは、八戒で、悟能ではない。それを多分八戒は気がついている。
自分を手に入れれば、八戒は悟能に戻ってしまうだろう。
双子の姉と愛し合い、失った罪を抱えたまま悟能に戻れば、狂う以外に道はない。それだけはさせられなかった。
「あなたが、紫の目の人ね」
昼日中には相応しくない色気に満ちた声色は、しかしどこか無邪気だった。
「……相手は、俺じゃないはずだが。いいのか、あの河童は」
「河童って……面白いわね、あなたたち」
「八戒。悟浄のほうに行ってろ」
「いいんですか」
「必要ない」
おたおたしたまま動けなくなっている悟浄を無視して、女と三蔵は対峙した。
長く波打つ黒髪と、猫の目のように色を変える不思議な瞳。
優美な線を描きながら勝気な美貌に、泣き黒子が多分、男をそそるのだろう。
そして、この瞳は――――――。
「邪視……か」
「魔眼ともいうわね。魅了の瞳よ。でも、あなただってそうでしょう?」
邪眼、邪視、人の心を支配する特別な瞳をそう呼ぶことがある。魔眼とは、はるか東の地方の呼び方だ。つまりこの女は桃源郷より東から来たことになる。
「しらねぇな。知ろうと思ったこともねーからな」
「罪作りね。無意識ってわけ?」
「さっきから、何が言いてぇ」
自分にその気がなくとも、相手を誘ってしまうこの目は、三蔵にとって鬼門だった。できるなら抉り取りたいぐらいだが、それも馬鹿馬鹿しい。銃を手に入れてからは、実力で排除してきた。
女顔の男など結構いるのに、三蔵ばかりが酔客やごろつきに欲望を込めて近づかれるのは、その美貌のせいよりも、この特別製の目の力が大きかった。
三蔵はそれを誰にも言ったことはない。
「悟浄が昨日私になんていったか教えてあげましょうか?」
「聞く必要が、あんのか」
「あんたが、欲しいって言ったのよ」
笑いながら女は宿を後にした。
悟浄も八戒も置き去りにしたまま、上機嫌で姿を消した女を、もう三蔵は見てはいなかった。
女の言葉だけが頭を繰り返しよぎる。
(くだらない口説き文句だな)
何人の女に使ったのか、知れやしない安っぽい言葉。
それは、昨日と今朝、悟浄が三蔵に言った言葉だ。
手垢がついた、安すぎる口説き文句。
自分が何に衝撃を受けたのかわからないまま、三蔵は意識を失った。
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