その夜、悟淨は戻ってこなかった。
下がりかけていた熱が、また一気に上がったために気を失った三蔵を休ませて、八戒は夜明けを待って悟淨を探すことにした。
刺客がいつ襲ってくるかも分からない状態で、単独行動をさせるわけにはいかないだろう。
おそらく自分の顔など今は見たくないだろうが、いつまでも逃げることを許す気などない。
すべてを壊したのは自分のくせに、悟淨を責めるのはあまりに身勝手だとわかっていても、正面を向いて欲しかった。
ずっと、悟淨を羨ましいと思っていた。
悟淨のようになりたくて、そうはなれない自分を自嘲しながら、側にいることに満足さえしていた。
自分とは真反対な人だと思っていた。
優しくて臆病な人だと、知っていた。
同じ者を欲することさえなかったら、悟淨が本気になれる相手を見付けたことを誰よりも喜べたはずなのに――
だが、知らなかった過去に戻ることはできない。
すべてをなかったことにできないのなら、戦う以外に道はないだろう。
欲しいものは奪えと、どこかで声がする。
欲しがらないものに与えられるものなど何一つないのだから。
自分は三蔵の何が欲しいのか。
悟淨は三蔵の何を欲しているのか。
八戒が見ている三蔵と、悟淨が見ている三蔵は多分違う。
選ぶのは三蔵だ――
わかっていても見失いそうになる――本当の望みを――
(僕はあなたを、どうしたいんでしょう……)
(ねえ――三蔵)
「三蔵を頼みますね」
「うん」
「呼吸も落ち付きましたから、もうすぐ目を覚ますと思いますけど、食事はまだできないでしょうね。厨房にお願いして、スープか粥を用意してもらいますから、三蔵が起きたら食べさせてあげてください。嫌がるでしょうけど、病人なんですから、しっかり面倒見てあげてください。薬はテーブルの上にあります。薬湯ですけど食後に。全部飲むまで見張っててください。あとは、汗を拭いて白湯を多めに飲むように。えーと、憶えられましたか、悟空?」
「うっ……な……なんとか」
酢でも飲んだような顔で固まっている悟空は、何か言いたそうに視線を泳がせている。
悟淨が戻ってこなかった理由を悟空は詮索しなかった。
三蔵のことで頭がいっぱいなのかもしれないが、それにしても、八戒と目を合わせようとしないのは、あからさまにおかしい。
様子を伺う様に八戒を見ながら、視線を合わせようとすると顔をそむける。
違和感はあったが、それを深く考える余裕は今の八戒にはなかった。
「じゃあ、僕は困った人を迎えに行ってきますから」
「あっ! あのさ、八戒!」
「どうかしましたか?」
「――うっ、う~……あの……さ、八戒……三蔵のこと、好き?」
「もしかして、悟空も熱があるんですか」
「ちっげーよ!!」
顔を真っ赤にして叫ぶ悟空の言葉に、八戒は驚く。
悟空の口からこんな言葉が出るとは思ってもみなかった。
「見たんですね」
悟空の身体が震える。
カマをかけただけだが、これで確信できた。
どこからかはわからないが、三蔵との経緯を悟空は目撃してしまったのだろう。
ごまかすこともできただろうが、八戒は真剣に答えた。
「好きですよ。とても」
「そっ、そっか、そうなんだ……」
「悟空のことも、悟淨のことも大好きです」
「八戒……ずりぃぞ、それ」
「でも、本当ですよ」
もとの関係には戻れないけれど、新しい絆を作ることができるなら、それに賭けてみたい。
狂おしいまでに三蔵に心を奪われていても、誰一人失いたくないと思う気持ちも、まぎれもなく存在する。
3年の間に、ずいぶんと欲張りになった。
「俺……三蔵が苦しいのやなんだ」
「悟空……」
「三蔵の役に俺、全然立たないけど、でも、三蔵の敵は俺の敵だから。それしかできないから――三蔵を傷つけるやつは、ぜったいに許さない」
(それが、僕や悟淨だとしても……ですか)
「あなたは、強いですね」
悟空は一番大切なものをちゃんとわかっている。
何を一番に優先させるのか、それを知っているからこその強さ。
(悟空がライバルだったら、僕たちでは勝ち目はありえませんね)
悟空の世界は何よりも三蔵がすべてだ。
存在の根源を為す三蔵を守るためなら、悟空はなんでもするし、自らが傷つくことを欠片も怖れない。
悟空の三蔵への想いは、恋よりもずっと深い。
三蔵がいてこその悟空だが、悟空の存在は三蔵の救いだろう。
どこまでも自分勝手な八戒と悟淨の想いとは、そもそもの次元が違うのだ。
それでも、三蔵をあきらめることなどできなかった。
自分を抑えることができない。
悟淨も同じではないのか。
「強くなんて、全然ないじゃん。守るって、そういうことじゃないんだよな? 三蔵、守られるのすげー嫌いだし、俺って敵ぶっつぶす以外、なんにもできねーんだもん」
「あなたは、もう十分三蔵を守ってますよ」
それは、悟空以外の誰にもできはしない。
「悟空。もし、僕と悟淨が……いえ、なんでもありません」
「八戒?」
「なにかお土産買ってきますね」
「あっ! 俺、肉まんがいい!!」
ようやく笑顔を見せた悟空に、笑って八戒は頷いた。
(もしも、僕と悟淨が三蔵を傷つけるようなことがあったら、あなたが三蔵を守ってください)
「酒場と女性……どっちでしょうね」
悟淨の行き先というと、まずこのふたつ以外にはない。
遊廓という線はないだろう。
あれで悟淨は女好きとしてのプライドがあるので、商売女には手を出さない。
ただ、傷心の悟淨がとる行動は予想がつかなかった。
なんといっても、悟淨にとって、へたをするとこれが初恋ということになるので、今までの行動パターンがあてにならない。
(でも、おそらく女性でしょう)
悟淨の女好きは、どこかで母親を求めているためのものだから、逃げ場としてちょうどいい。
八戒には母親というものがはじめからいなかったので、いないものに求める愛情などなかったから、悟淨の気持ちはよくわからなかった。
八戒にとって、執着の対象は双子の姉だけだった。
再会して愛し合ったのは成長してからだったけれど、自分に半身がいることは幼い頃から知っていたし、自分たちが許し合えることも確信していた。
けして振りかえらない相手を求めた経験がない。
だから、悟淨の怯えが感覚的に理解できなかった。
「彼女……のとこでしょうか」
黒髪に濃い紫の瞳の――挑戦的な瞳の女。
三蔵の体調を窺いながらも、出発することにした時、悟淨に声をかけた女がいた。
偶然というのは、本当だったのだろうが、おそらくは悟淨と夜を過ごしたのだろう女は、三蔵を見てにっこりと微笑んだ。
なにもかも、わかっているような顔で。
三蔵が倒れたのは、その直後だ。
漏れ聞いた会話のどこに、三蔵が衝撃を受けたのかはわからない。
ただ、三蔵のあの不安定さの引き金は、間違いなく彼女のせいだと八戒は確信していた。
さほど大きくはない町で、彼女のようなタイプの女が目立たないわけはない。
噂を集めるのは簡単だったが、悟淨とその女の往来でのラブシーンのすごさを何度も語られて、八戒はあきれた。
「10分はしてたんじゃねーか」
「そりゃ、いいすぎだろ」
「いや、絶対そのぐらいはしてたぞ!」
「なんか、スポットライト浴びてるみてーだったよな」
「すげーもん見たってなあ」
「あのねーちゃんもただもんじゃないカンジだったけど、それにまったく動じてねー、にーちゃんもすげーよな」
酒場で酔客たちに赤毛の男のことを聞いてみると、あれよあれよと人だかりができてしまった。
「なにやってんでしょう、あのひと」
さすがに微笑みがひきつる。
(多少の痛い目は覚悟してもらいましょうか)
悟淨が見つかったら何を言ってやろうかと考えながら、八戒は肝心な女の家を尋ねると、男たちの奇妙な顔に出くわした。
「家ってなあ。誰か知ってるか?」
「いや、だってあの姉さん自体見るのはじめてだぜ」
「あんたたちと同じ旅のモンじゃないのか?」
「つってもよー、宿は3軒しかないんだぜ。これだけいて誰もあんないい女の泊まってる宿しらねーのも、なんかおかしいよな」
「そういえば、あれから1度も見てねーよ」
小さな町では、噂話は最大の娯楽だ。
まして、それだけの騒ぎを起こした女に好奇の視線が行かない方がおかしい。
だとしたら、町の人間すべての目を晦ませることができる女が、ただの女であるわけがない。
(罠……ですかね)
「そんなつもりはないんだけど」
「あなたは……」
「私をお探し?」
いつのまにか、八戒の向かいの席に、女が座っている。
気配をまったく感じさせない女の姿は、以前に会ったとおりに扇情的なもので、悟淨が声をかけたのも無理はないと八戒でさえ思った。
しかし、そんな彼女を前に、周りの客たちは空気のようにその存在を無視している。
(見えていない?)
「見えてはいるのよ。ただ、意識にのぼらないだけ」
「心が読めるんですか」
「そんな顔してるもの」
唇の端を吊り上げただけで、完璧な笑顔を見せる女の底が見えない。
「赤毛の迷い犬を探してるのかしら」
女の目が笑っている。
八戒は首を横に振った。
「僕が探しているのは、寂しがり屋の河童です」
酒場に、女の爆笑が響き渡った。
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